名盤 IN A DAY

3月11日(木)の名盤は…

“20世紀のアメリカで最も愛された歌手は誰か?”という投票が

10年ほど前に行われたことがありました。

その結果、男性歌手はフランク・シナトラ、

女性歌手はバーブラ・ストライザンドが選出されました。

この結果は日本人の我々からすると意外に思えるかもしれません。

20世紀、という100年のスパンがあるので、

ロック誕生以前から活躍しているシナトラが

エルヴィスを抑えたのは理解できなくもないのですが、

バーブラの正式な歌手デビューは1962年。

もっと長く活動する人もいますし、ロック世代で他にもっとヒット曲が多い人が

いそうな感じがするんです。

ところが。誰もいないんです。彼女より明らかに長期にわたって

第一線で活躍する女性も、彼女より実績がある人も存在しないんです。

アルバムは今までに50枚以上がゴールド・レコード以上。

ビルボードの記録ではヒット曲数、アルバム数、総売り上げともに

歴代女性歌手のNo.1、

彼女より上にはエルヴィスとビートルズがいるだけなんです。

グラミー賞10回受賞というのも驚異的。

日本には情報がうまく伝わってないだけなのですね。

それは存在があまりにも巨大だからかもしれません。歌手だけではないのです。

作曲家でもあり、女優でもあり、映画監督でもあります。

グラミーの他にオスカー2回、ゴールデングローブ賞11回、

エミー賞6回、トニー賞1回などなど。

要するに音楽、映画、舞台、テレビ、全てを制覇した、

アメリカン・ショービジネス界のスーパースターが

バーブラ・ストライザンドなのです。

音楽は彼女の一部でしかなく、しかもロック世代にもかかわらず、

いわゆるポップ・フィールドではなくミュージカルなどの

古き良き時代のエンターテインメントの流れを汲む歌が多いのが、

日本で今ひとつわかりにくい存在となっているのでしょう。

しかし、それ故にアメリカでは世代を超えた国民的芸能人のカリスマとして

愛されているのです。

今日お届けしたのは、1980年全米No.1ヒット曲「ウーマン・イン・ラヴ」でした。

3月4日(木)の名盤は…

先週まで2週にわたり”正式名義の重要性”について語りましたが、

今日は”では、それが明らかに間違っている場合はどうなるの?”

というエピソードを紹介しました。

例えば1950年代から60年代のソウルなどでは、

Aさんのアルバム10曲の中に異なる声の歌が1曲混じっている、

なんてことがよくあったのです。

後からそれは同じ会社のBさんのものだとわかります。

“そんなバカな”と思ってしまいそうですが、なにしろ50年近く前の話なのです。

で、会社が誤りを認めて速やかに差し替え訂正し、

Bさんの名義に復権した例もありますが、

何十年もそのまま放置されることも多いのです。

この場合は一般にはAさんの曲として取り扱うしかないのですね。

さて、以上は手違いによる事故ですが、

実は故意に別人に歌わせることもあります。

最も有名なのは名プロデューサー、フィル・スパクターが手掛けた

ザ・クリスタルズ、1962年の全米No.1ヒット「ヒーズ・ア・レベル」。

このオールディーズ定番名曲、歌ったのはダーレン・ラヴという人で、

クリスタルズは誰一人参加していないのです。

今やポップス・マニアなら誰でも知っている事実ですが、

しかし全世界何百万人の心に刻まれているヒット曲の記憶を

今さら書き換えることなどできませんよね。

やっぱりクリスタルズの「ヒーズ・ア・レベル」なのです。この先もずっと。

ですが、90年代になるとそうはいきません。

1990年、全米No.1を3曲連続して放ち、

グラミー賞最優秀新人賞を受賞したミリ・ヴァニリの2人は

すぐに賞を剥奪されました。実は2人はまったく歌っておらず、

影武者の歌に合わせての口パクだったことがバレたのです。

最初から”メンバー4人だけど表には2人しか出ない

史上初の腹話術歌手”とでも宣言しておけば面白かったのでしょうが、

それでは売れなかったかな?

後に影武者が”リアル・ミリ・ヴァニリ”を名乗って独立しましたが、

CDで聴く限り、ミリ・ヴァニリもリアル・ミリ・ヴァニリも同じという

変な具合になって、当然のように売れませんでした。

今日お届けしたのは、

後のリアル・ミリ・ヴァニリが歌っているミリ・ヴァニリの大ヒット曲

「ガール・ユー・ノウ・イッツ・トゥルー」でした。

2月25日(木)の名盤は…

先週は”後々おかしなことになるおそれがあるので、

正式なアーティスト名義を大切にしましょう”というお話をしました。

今週はそれをもう少し推し進めてみたいと思います。

例えばポール・マッカートニー。

彼はビートルズ解散後、基本的にはソロ活動といっていいのですが、

ポール&リンダ、ポール・マッカートニー&ウイングス、ウイングスと

編成に合わせて名義が変わります。

”ポール・マッカートニーで「心のラヴ・ソング」をお送りしました”というのは、

厳密に言えば間違いで、正解はウイングスなんです。

そのポールとも縁の深いエルヴィス・コステロ。

彼はもっと複雑で、ソロ名義の他にエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ、

エルヴィス・コステロ&ザ・コンフィデレイツ、

ザ・コステロ・ショウという名義があって、それぞれバンド・メンバーが異なりますし、

さらにソロでもジ・インポスターという別名も持っていますし、

プロデューサーや作曲者としてはさらに

2~3のペンネームも持っています。

そういった作品が今ではコステロ名義の1組のベスト盤に

一緒くたに入っているんですね。

全て彼本人の仕事に間違いはないので、

そんなに目くじらを立てることでもないのかもしれませんが、

必ず何らかの意図があるからこそ名義が変わってくるわけですから、

そこは尊重されるべきだと思うんです。

今日紹介したのは特に複雑な曲、最初に出たのは彼の師匠にあたる

ニック・ロウという人のシングルのB面で、

名義はニック・ロウ&ヒズ・サウンド。

でもファンが聴けば最初の一声でコステロが歌っているのがバレバレ。

実際にコステロ&ジ・アトラクションズの演奏で、

でもどこにもクレジットはないのです。

しかしジャケットでニックがコステロのギターを持っている、という

マニアックなタネあかしがあるんです。お遊びですね。

けれど、お遊びにも意味があるのです。

大人がクソまじめに遊ぶのがロックンロールなのですから。

今日お届けしたのは、

ニック・ロウ&ヒズ・サウンドで「ピース、ラヴ&アンダスタンディング」でした。

2月18日(木)の名盤は…

東京スカパラダイスオーケストラと奥田民生の

8年ぶりのコラボレーションが話題で現在ヒット中の「流星とバラード」、

これは実は厳密に言うと正式クレジットはあくまでも

スカパラの単独名義なんです。

この事実はリアルタイムで今、体験している我々が、歴史の証人として

覚えておかねばならないことかもしれません。

“何を大げさな”と思われるでしょうが、

これは大きな問題となる可能性があるのです。

例えば、久保田利伸やビッグ・マウンテンなど、数多くのカバーを生む名曲

「Just The Two Of Us(クリスタルの恋人たち)」という曲があります。

オリジナルはジャズのサックス奏者、グローヴァー・ワシントンJr.の

アルバムの中で、ソウル歌手ビル・ウィザースを

ゲストに迎えて歌ってもらったもの。

出来が良かったので連名でシングル・カットしたら

全米2位の大ヒットになりました。

ですから、どちらかと言えばワシントンの作品なのですが、

ウィザースにとっても代表曲となったために、

彼の単独ベスト盤にも収録されています。

ですが、再発される度にこうしたクレジットは簡略化されてゆくもので、

現在のCDには詳しく載っていません。

それで初めてこの曲を知る若い人はウィザース単独の曲と

思い込んでしまうかもしれないのです。

さて、ジャズ/フュージョン界の大物、クルセイダーズが

初めて歌モノに挑戦してヒットした名曲が「ストリート・ライフ」。

ランディ・クロフォードを歌手として迎えたこの曲は、

シングル盤でも正式名義はクルセイダーズ単独でした。

ところが、ランディにとっても代表曲なので、

彼女のベスト盤にも入っています。

しかし現在のCDにはクルセイダーズの「ク」の字も

クレジットされていません。

完全にランディ・クロフォードの「ストリート・ライフ」になっているのです。

これは歴史の改ざんと言えるでしょう。

音楽に関わる私たちは、10年、20年後のためにも正確な情報を

届けなければならないと、改めて肝に銘じたいと思います。

今日お届けしたのは、ザ・クルセイダーズが、

ランディ・クロフォードをボーカルに迎えた

1979年の曲「ストリート・ライフ」でした。

2月11日(木)の名盤は…

今週はフィル・コリンズを紹介しました。

1980年代のスーパースターを5人挙げるとすると、

マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、

ブルース・スプリングスティーン、そしてフィル・コリンズと答える人が

多いのではないでしょうか。

いろんな見方があるので断言はできませんが、

トップ10にこの5人が入っていることは間違いないでしょう。

その中でもフィル・コリンズはソロと並行して

ジェネシスのメンバーとしての活動や、数多くのセッション参加、

プロデューサーとしての仕事もこなし、

さらに俳優業までやるのですから、“世界で一番忙しい男”と呼ばれていました。

持ち前の旺盛なサービス精神から、依頼された仕事は

基本的に断らないという姿勢や、コミカルな三枚目キャラ、

そして重厚でシリアスだったジェネシスをどんどんポップ化したことなどによって、

硬派なロック・ファンからは何かにつけ批判されがちな彼ですが、

本当にそうなんでしょうか。

ジェネシスのメンバーはみんな上流階級出身で、

後から加入したフィル・コリンズは

「みんなどんな仕事の途中でも3時になると

紅茶を飲み始めるから驚いた」といいますし、

要するに彼だけがそんな習慣がなかった、つまり労働者階級だったのです。

エリック・クラプトンのプロデュースを担当したときには、

他のだれも怖くていえなかったダメ出しを平気でやったことは有名です。

また、多数のミュージシャンが出演するフェスなどでは、

自分達の出番以外にも、全員参加のセッションはもちろん、

フェスのための専用ハウス・バンドにも加わり、

延々と何時間もドラムを叩き続ける姿を何度も目にします。

本当に頭が下がります。

そんな無理がたたったのか、去年脊髄の手術を受け、

ドラムが叩けない状態になっているそうです。

(これからのリハビリである程度の回復の可能性はあるとのことですが、

あくまで今の時点では演奏はできないそうです。)

下層階級から成り上がり、大物相手にも言うべきことは言い、

体がこわれるまで演奏を続ける。

実はフィル・コリンズこそがロックなのかもしれません。

2月4日(木)の名盤は…

今週は1月14日に71歳でなくなったボビー・チャールズを紹介しました。

おそらく今までこのコーナーで取り上げた人の中でも一、二を争うほど

一般的には知名度の低い人だと思いますが、

日本の40代から50代のアメリカンロック、シンガーソングライターファンに

とっては絶対に忘れられない存在なのです。

ルイジアナ出身の彼は何と黒人音楽の名門

チェス・レコード初の白人歌手として1955年にデビュー。

残念ながらヒットは生まれず、歌手としては挫折しました。

ところが、彼のオリジナル曲を気に入った当時の大スター、

ビル・ヘイリーがカバーした「シー・ユー・レイター・アリゲイター」が

大ヒットするや、他の歌手からも作曲依頼が殺到し、

結果として1950年から60年代のロックンロール、

R&Bのヒット曲を数多く書くこととなります。

作曲家として成功を勝ち取ったのです。

しかし、彼はあまりにも欲がなく、ある程度の曲を書いた時点で

定期的に入ってくる作曲印税に満足して、隠居し、

完全に業界から消えてしまいます。

次に発見されたのは7年後の1972年。

南部のルイジアナから遠く離れた北東部のウッドストックに

移住していた彼は、そこに住むザ・バンドのメンバーなどと仲良くなり、

初のアルバムを発表したのです。

初期のロックンロールとは違う、素朴でしみじみと味わい深い、

全編に癒し効果の漂う、それでいて高い音楽性を誇るこの作品は、

当時日本で発売されず、輸入盤で口コミで話題となり、

“幻の名盤”ブームの火付け役ともなり、6年後の78年、

ついに日本盤が発売されるまでの経緯を体験したファンには

絶対的存在となったのです。

しかしここでも欲もなければ飛行機も嫌い、

人前で演奏するのも好きじゃないという彼はほとんど表舞台にでることもなく、

2ndアルバムは15年後、3作目は8年後と、その音楽性らしいマイペースでした。

忘れた頃に突然届けられる新作を楽しみにしていたファンの方にとっては、

それをもう受け取ることができないのは本当に残念ですね。

1月28日(木)の名盤は…

今週は1月13日に59歳の若さで亡くなった

「テディ・ペンダーグラス」を紹介しました。

1970年代前半はハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのリード歌手として、

70年代以降はソロとして大活躍。

日本でも”テディペン”の愛称で人気がありましたが、

世界的に見ても70年代の10年間で、

最も高い人気と実績を誇ったソウル・シンガー何人かのうちの

ひとりであったことは間違いありません。

彼の場合は、長身でルックスも良かったんですが、

何よりもその男性臭いバリトン・ヴォイスで雄大かつセクシーに歌う声が

黒人女性たちの憧れの的でした。

歌の内容もセクシー一辺倒で、ライヴではなんと女性から

下着が無数に投げ込まれるほど、まぁ、モテたんです。

プレイボーイな逸話もたくさんあります。

さて、人気絶頂の1982年、彼は交通事故を起こし、

下半身不随となってしまいます。

すると、あれだけキャーキャー言ってた女性達は手のひらを返したように去り、

彼の周りには2人の子どもと、女性問題で泣かせ続けてきた

奥さんだけしか残りませんでした。

大切なものに気付いた彼は車椅子に乗った歌手としてカムバック、

セクシー路線をやめ、家族への感謝や命の喜びを歌うようになったのです。

正直言って事故後の彼の歌は元気がなく、ハリもツヤも衰え、

痛々しささえ感じるところがあるのですが、まじめにひたむきに歌う姿は

全盛期とは異なる感動があります。

歌で富と名声を勝ち取り、歌で道を踏み外しかけ、歌に救われた59年の人生は

根っからのソウル・シンガーに相応しいものだったのかもしれません。

今日は、全盛期の1979年の大ヒット曲「ライトを消して」をお届けしました。

1月21日(木)の名盤は…

先日から、

国内外の大物アーティストの訃報が相次いでいるんですが、

皆さんに知っていただきたい方ばかりですので、

数回に分けて紹介したいと思います。

まずはミック・グリーン。

ロック・ファン、中でも自分でギターを弾いている人には

絶大なる支持を集めている伝説のギタリストです。

今や若いJ-ロック・ファンのほうが彼のことを知っているのかもしれませんね。

2001年にミッシェル・ガン・エレファントが最大級のリスペクトをもって

彼と共演しています。ミッシェルのギタリスト、

故アベフトシさんの特徴的な奏法である、まるでマシンガンか

チェーンソーのようなガッコンガッコンという切れ味鋭いカッティング・ギター。

これのお手本となったのが、ウィルコ・ジョンソンというイギリスの

ギタリストといわれていますが、

そのさらに師匠にあたるのが、このミック・グリーンなのです。

要するに、この手のギター奏法を編み出した真のオリジネイターが

この人なのです。このような直系の弟子、孫弟子も

全世界にたくさん存在するのですが、

この手の奏法をメインとしないギタリストも、

”ミック・グリーンなんて聴いたこともない”という人達も

間接的にはどこかで影響を受けているのです。

なぜなら彼がザ・パイレーツにギタリストとして参加したのが1962年。

ビートルズとほぼ同期であり、ジョン・レノンもジョージ・ハリスンも

彼に衝撃を受け、後輩のローリング・ストーンズもキンクスもフーもみんな

ミック・グリーンからの影響を認めているからです。

イギリス四大バンド全てをビビらせ、何らかの刺激を与え合ったのですから、

現在までのプロ・アマ問わず全てのロック・ギタリストは知らず知らずのうちに

ミック・グリーンの血が流れていると言っても過言ではないでしょう。

偉大な功績の割りには知名度は高くありませんが、

今日も世界中のあちこちで彼の遺伝子が

ロックンロールをプレイしているのです。

今日お届けしたのは、彼が在籍したザ・パイレーツの初期(1963年)の

音源「マイ・ベイブ」でした。

1月14日(木)の名盤は…

皆さんは思いがけない場面で大好きな曲が聴こえてきて、

ニマッとしたことはありませんか?

今日はそんな1曲を以前「キネマのススメ」でも紹介した

映画「パイレーツ・ロック」から紹介しました。

ロレイン・エリソンの「ステイ・ウィズ・ミー」という曲です。

この曲は20年程前、ピーター・バラカン氏が書いた「魂のゆくえ」という

本の中の“ソウルの一発屋の大好きな曲”というコーナーで紹介されていました。

その文章を紹介しますと、

“1967年のこのドラマティックなバラードにロレイン・エリソンなる

女性が込める感情は、ほとんど狂気じみた感じです。

彼女について何も知らないし、知る必要もないほど、

コメントする余地を残さない強烈さだ”-とここまで書いてありました。

当時はまだCD化されてなく、ソウルのオムニバスLPに収められていました。

その後別のオムニバスでCD化され、

ソウル・ファンには絶大な人気を誇る名曲ですが、

決してメジャーとは言えないこの曲があの映画の中で流れるんですね。

しかもいい場面で使われて、ラストではダフィのカヴァー版でもう一度流れて、

と完全に主役級の扱いなんです。

ところでこの曲、調べてみると、当時全米64位、R&Bで11位と、

一発屋といえるほどのヒットでもないんです。

でも70年代にキキ・ディー、90年代にトリーネ・レインがカヴァーしているあたり、

イギリス、ヨーロッパではピーター・バラカンの記憶通り

ヒットしたのかもしれませんね。

1月7日(木)の名盤は…

2010年最初のこのコーナー、今日は、

ポップでハッピーな女性ボーカルの名盤を紹介しました。

1991年末にリリースされ、翌年92年にかけての大ヒット、

もう20年近く経つというのが

信じられないナンバー、「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」。

ずーっと音楽を聴いていると、1年にほんの数曲だけ

”これは奇蹟のような曲だな”と思うものと出会うことがあります。

この曲はまさしく1992年の奇蹟のひとつでした。

イントロのスキャットからして最高にキャッチーで、

もうヒットは約束されたようなものですし、

グラウンド・ビートっぽいリズム、途中で挿入されるラップ、

ちょっとびっくりする程のジャズ界の大物によるサックス・ソロ、

全体のアレンジもこの時代より2~3年前でも後でも絶対に出来ない、

91年~92年でしかありえないコンテンポラリー感がありながら、

時代を超越したエヴァーグリーンな香りに溢れ、

だからこそ18年も前の曲とは思えないほど古びないんです。

そしてその奇蹟を最後に演出するのが、今日の主役シャニースの歌唱力。

この曲をさかのぼること4年前の1987年、14才でデビューした天才少女で、

この時点でまだ18才の若さ。

各方面から歌の上手さは若手で一番と絶賛されましたし、ルックスも抜群、

年齢的にみてもあと10年や20年はシャニースの時代が続くと

誰もが思ったものでした。

しかし、彼女の時代と呼べるものが来ることはなかったのです。

何故か4年に1枚のペースを守り続けたことが時代に乗り切れなかったとか、

90年代のいわゆるR&Bとの相性が悪かったとか、

”子役は大成できない”のジンクスにハマったとか、

理由はあるのかもしれませんが、残念でなりません。

ただ、ヒットはたくさんありますが、マライア、ジャネットと並ぶディーヴァに

なれる可能性があった人なのです。

いや、まだ36才。もう1度くらい奇蹟を起こすことも可能かもしれませんね。

それほどの器なのですから。

12月31日の名盤は…

ある世代には懐かしく、

またある世代には新鮮に響く名盤の数々を紹介する「名盤iNaDAY」。

今年の音楽シーンを振り返ると、一番の出来事といえばやはりなんといっても

マイケル・ジャクソンの悲報ではないでしょうか。

僕は、彼の作品の中でも「BAD」に衝撃を受けましたね。

あれだけすごかった「スリラー」の後に出すということで、

どんな作品を出すんだろうという中で、ものすごい衝撃でしたね。

なのに「スリラー」だけが群を抜いて圧倒的に売れたのはなぜなのかと考えると、

とたんに迷路にはまってしまうのです。

“プロモーション・ビデオのおかげだろう“と言われそうですが、

映像のないLPやCDが1億枚売れているわけの答えには

なってないように思うんです。

“大衆とは常に中庸を求めるものだ”と言う人もいますが、

本当に当たり障りのない中庸なら100万枚は売れても

1億枚は絶対に売れないんじゃないかなと思うんですね。

思うにこの作品は、黒人音楽と白人ロック、大衆性と実験性、

そして曲順や構成が絶妙に絡み合っている。

それにポップスの魔法が奇蹟的にうまくかけられていること。

だからこそのキング・オブ・ポップスなのでしょう。

その魔法が何なのか、もうしばらくの間僕なりに考えてみたいと思います。

あなたも、どうぞ、あなたのマイケルを探してみて下さい。

1億通りのマイケル・ジャクソンがあっていいのですから。

12月24日の名盤は…

ちょうど1年前のこのコーナーを覚えている方はいらっしゃるでしょうか?

イギリスには山下達郎の「クリスマス・イヴ」をも超える、

35年以上にも渡って毎年12月になるとヒットチャートを上昇する

お化けのようなクリスマス・ソングが存在するといって、

スレイドの「メリー・クリスマス・エヴリバディ」を紹介したんですね。

実はまったく同じ1973年に発表され、まったく同じ年数だけ

続けて毎年この季節になるとチャートに顔を出すクリスマスの名曲が、

イギリスにはもう1曲あるんです。

それが「I Wish It Could Be Christmas Everyday」です。

60年代からザ・ムーヴというバンドで活躍し、

エレクトリック・ライト・オーケストラを結成した初代リーダーながら

1作で脱退したバーミンガムの奇才、ロイ・ウッドが、次に作ったバンド、

ザ・ウィザードがオリジナル。

チャートの最高位は全英4位ということで、スレイドの1位には負けますが、

その後35年間は勝ったり負けたりを繰り返し、1981年と1984年には

特に大きなリヴァイヴァル・ヒットを記録していて、

トータルで見ればどちらがよりヒットしたのかよくわからない

永遠のライバルといえそうです。

2004年に行われた「イギリス人が好きなクリスマス・ソング トップ20」アンケート

ではスレイドが4位、こちらが7位と、ジョン・レノン(9位)や

ポール・マッカートニー(18位)より上であり、

他の上位曲はバンドエイドやワム!、マライア・キャリーといった

世界的にも有名な曲が並んでいることを考えると、

おそらくはイギリスでしかランクされないであろうこの2曲こそ

イギリスの国民的クリスマス・ソングと呼んでもいいのではないでしょうか。

もちろん、日本人の私たちが聴いてもカッコいい

ロックンロール・クリスマス・ソングだと思います。

12月17日(木)の名盤は…

もうすぐクリスマス、今日は教会音楽ゴスペルを紹介しました。

ゴスペルとは、ごく簡単に一言で言うならば、

白人教会音楽である賛美歌の黒人版、ということになります。

今ではここ日本でも、ママさんコーラスの流れや教会の催し物で

ゴスペル・コーラスが人気になっているので、

知名度も上がってきていますよね。

一言でロックと言ってもいろいろな種類があるように、

ゴスペルにもいろいろあります。

でもひとつだけ言えることは、これまで生まれた全てのアメリカ黒人音楽、

ブルース、R&B、ソウル、ファンク、ヒップホップなどは、

全てゴスペルから発生したものだということ。

そしてそれはアフリカから奴隷として連れて来られ、

無理やりキリスト教へ改宗させられ、

一切の自由をも奪われ、神に祈るしかできなかった黒人達にとって

唯一、魂を解放することができる瞬間へと

つながっていることは覚えておきたいですね。

ただ、だからといって悲愴感ばかりではないのが

ゴスペルの奥深いところです。

“暖かく、おかしく、悲しく、セクシーで、非常に真剣で、

陽気な皮肉に満ちている”からこそ

人種や宗教を超えた魅力に溢れているのでしょう。

今日はソウルの女王、アレサ・フランクリンが1972年に教会で行なった

ゴスペル・ライヴからお送りしました。

12月10日(木)の名盤は…

突然ですが…ここで問題です!

ピンク・フロイド、ジェネシス、ドゥービー・ブラザーズ。

これらの3バンドの共通点は何でしょう?

答えは「途中でリーダーが交代したバンド」です。

リーダーが代わるということ自体はさほど珍しいことではありません。

交代の理由は大きく分けて3つ。

亡くなったり、事故や病気で活動できなくなった場合がひとつ。

リーダー自らが脱退してしまう場合がひとつ。

そしてバンド内クーデターで政権交代する場合。

いずれにしても方向性を決める人が代わるのですから、

サウンドも変化します。

少しだけ変化することもありますが、

まるで別バンドのように変わってしまう例もあります。

さて、では次のリーダーには誰が就任するかというと、

ほとんどは残ったメンバーの中で一番の実力者、

つまり少し前までのNo.2が繰り上がります。

この人は最初からのメンバーでなくてもよく、

中途加入者であってもいいのですが、とにかく前リーダー在籍中に

すでにメンバーであることが重要なのです、普通は。

しかし、この常識を覆したのがイギリスのニュー・ウェイヴ・バンド、

ウルトラヴォックス。

絶対的リーダー、ジョン・フォックスの下、ヒットはなくとも同業者や

マニアに絶大なる支持を受け、後輩達に多大な影響を与えた彼らでしたが、

ある日フォックスが突然バンドを放り出し、ソロに転じました。

残された3人は途方に暮れます。誰もリーダーの器ではなかったからです。

そこで大胆な行動に出たのです。

なんと他のバンドから有能なミッジ・ユーロを引き抜いて、

自分たちのリーダーになってもらったのです。

この前代未聞の秘策が功を奏し、

フォックス時代を大きく上回る商業的成功を手に入れたのでした。

あのとき誰かが欲を出して"自分が・・・"と思ってしまっていたら、

この成功はなかったかもしれません。

己の小物ぶりを知る、ということは難しいことですが、

とても大切なことなのでしょう。

今日お届けしたのは、1980年の曲で、

ウルトラヴォックス「ニュー・ヨーロピアンズ」でした。

12月3日(木)の名盤は…

今週は1970年代後半から80年代にかけて大人気だったロック・バンド、

「フォリナー」を紹介しました。

結成はニューヨークですが、メンバーはそれぞれキャリアを持った

イギリス人とアメリカ人の混成であり、

どちらの国に行っても異邦人(フォリナー)が混じることから

バンド名がつけられました。

音楽的にも両方の国のロックが掛け合わさった感じで、

どちらの国でも異邦人であるというより、

どちらの国にも属する人であると言うべきかもしれません。

基本的にはハード・ロックですが、メロディがしっかりして親しみやすく、

FMラジオ向きの音作りがなされていたため、

すぐにイギリス、アメリカ両方でヒットを連発し、

ここ日本でも人気バンドとなります。

最初はメンバーの中で最も過去の実績が高かった

イアン・マクドナルド(元キング・クリムゾン)がリーダーと目されていましたが、

アルバム3枚で脱退し、

その後は同じくイギリス人で元スプーキー・トゥースのミック・ジョーンズと

最も実績のなかったアメリカ人シンガーのルー・グラムが主導権を握ります。

ミックはルーの声質にはバラードが合うことに気付き、

だんだんとバラード中心へとシフトしていき、そして1984年末、

究極の名曲が完成したのです。

ゴスペル・クワイアをバックにスピリチュアルに歌い上げる「アイ・ウォナ・ノウ」。

今や多数のカバー・バージョンが生まれているこの名バラードは

彼らにとって初の全米No.1を獲得しました。

“やっぱりルーの声にはバラードだ”とミックは自信を深めましたが、

これに反発したのが他でもないルーでした。

“何でバラードばかり持ってくるんだ。俺はハード・ロックがやりたいんだ”。

その後、ルーはソロに転じ、フォリナーの黄金期は急速に終わります。

ミックはメンバー交代を繰り返しながらフォリナーを支え続け、

ルーも一時戻ったものの2003年に再び脱退。

現在のフォリナーは史上最もハード・ロック度数の高い演奏を

やっているのにもかかわらず、

ハード・ロックをやりたがったルーはもうそこにはいないのです。

11月26日(木)の名盤は…

今日は、“音楽は世界を変えることはできないけど、

誰かの人生を変えてしまう力がある”というお話です。

今日の話の主人公、テキサス出身のエディ・ブリケルは音楽経験ゼロ。

楽器を触ったこともなければ、歌いたいと思ったことすらない

ズブの素人の女子大生でした。

それどころか人前で何かやることが大の苦手というシャイな性格。

しかし、ある日友達に連れて行かれたクラブで演奏しているバンドを

見ているうちに興奮してきて、

気がついたら頼まれもしないのにステージに上がって

即興で歌詞を作って歌ってしまっていました。

大胆な行動に一番ビックリしたのは彼女自身でしたが、

昨日まで想像もしなかった新しい自分に出会った瞬間でもあったのです。

そのままそのバンド、ニュー・ボヘミアンズに作詞兼ボーカルとして

加わることにしました。ここからトントン拍子に話が進みます。

ほどなくメジャー・レーベルと契約が成立。

1988年、デビュー曲「ホワット・アイ・アム」が全米7位。

アルバムは全米4位で250万枚のビッグ・ヒットを記録しました。

他のメンバーはキャリアがあったとはいえ、

エディは音楽を始めてからわずか3年でミリオン・アーティストとなったのです。

夢のような話ですが、この歌声の素晴らしさや、

初めからアドリブで詞を作ったくらいですから、

まぁ、天才だったのでしょう。

でもそんな才能も”あの日”友達に連れていかれなければ、

バンドを聴いて開花することはなかったのですから人生は面白い。

彼女はこの数年後、音楽を通じて知り合った超大御所ポール・サイモンと

25才の年の差を超えて結婚し、

現在も寡作ながら夫の力を借りて活動を続けています。

地味で目立たぬ女子大生が、あっという間にスターダムに登り詰め、

ちょっと考えられないような伴侶と結ばれたエディ・ブリケルの人生は、

”あの日”音楽と出会ったことによって大きく変わったのでした。

今日お届けした曲は、

1988年、全米7位の曲、エディ・ブリケル&ニュー・ボヘミアンズで

「ホワット・アイ・アム」でした。

11月19日(木)の名盤は…

クラシック音楽教育を受けたロック/ポップス系のミュージシャン、

と言えば”教授”こと坂本龍一が思い浮かびますが、

クラシックが地域の生活に根付いている欧米では珍しいことではありません。

けれども、ジョー・ジャクソンほどユニークな人はそうはいません。

世界有数の音楽学校である英国王立音楽院でピアノとヴァイオリン、

そして作曲法を学んだ彼。

先ほど珍しくはない、と言いましたが、これほどの名門で学んだ人となると

やはりレアですし、他の人達は素養が生かせるような、例えばプログレなどの

クラシカルなロックをやる場合が多いのです。

しかし、彼はまったく畑違いのパンキッシュなロックンロールで

デビューしたのだから、両親は”学費を返せ”と言いたくなるでしょう。

・・・と言っても、余談ですがジョー・ジャクソンの場合、

実際は奨学金をもらっていたそうですから、

文句の言われようもありませんが。

ということは、当然成績もトップクラスだったのでしょう。

とにかく前代未聞の衝撃でした。

しかしこれは少年時代にビートルズやキンクスが好きだったことも

あるでしょうが、時代の空気を読んだ戦略でもあったようです。

このスタイルは長く引っ張らず、

次から次へと音楽性を変化させる暴走が始まるからです。

パンク/ニューウェイヴからレゲエ、1940年代のジャイヴ・ミュージック、

AOR調、ジャズ、ラテンとアルバムごとに全然違う色彩を見せます。

そしてついにお得意の純クラシックまでも披露するのですが、

結局この人は音楽理論を学び、耳を鍛えたことによって、

いかなる音楽にも対応する能力を持ったのでしょう。

それまで感覚に頼っていたグルーヴ感だとかリズムの”タメ”だとかを

正確に楽譜化して組み立てるのでしょうね。

それでいて無機質な”あざとさ”が感じられないのは、

すべての音楽に真摯に接し、深い愛情があるからだと思います。

あと耳の良さのため録音にもこだわりがあって、

さまざまな方法で優秀録音盤を制作しています。

現在は初期の頃、ちょうど今日かける曲の頃のロックンロールに

回帰していますが、次は何をやらかすか誰にもわかりません。

今日お届けしたのは、1979年の曲「ワン・モア・タイム」でした。

11月12日(木)の名盤は…

“ロックはブルースから生まれた”とよく言われます。

半分正解です。

ロックは黒人音楽であるブルースを父に、

白人音楽であるカントリーを母に生まれました。

この辺りの詳しい話は、日を改めてじっくりしたいと思いますが、

ロックのルーツをたどっていくとブルースに着くのは間違いありません。

ロックを演奏するのは基本的に白人がメインなので、

もともとカントリーは自分達のルーツとして

持っているので問題はないのですが、後追いで学習したブルースに対しては

長い間コンプレックスを持っています。

極論するならば、本当はブルースをやりたいのだけれど

黒人みたいに上手くできないので

得意な白人音楽の要素を加えて再構築した”ぎこちなさ”こそが

ロックの面白さなのですが、

やはりミュージシャンとしてはそうもいかないのでしょう。

ブルースに始まりR&B、ソウル、ファンク、ディスコ、ヒップ・ホップ、ハウスなどと、

黒人音楽の新しい動きがある度にロックはそれをマネし、

取り入れてきたのは劣等感の表れでした。

でも本当はそれらの新しい音楽は白人音楽に影響を受けた

黒人音楽だったのに気付く人は少なかっただけなのです。

1980年代にロバート・クレイという黒人ブルースマンが登場しました。

低迷するブルース界の救世主として黒人側からも期待の大きかった人ですが、

この人の音楽がまぎれもないブルースなのに、

何かとってもロックっぽかったのです。

それもそのはず、彼は少年時代ビートルズに憧れてギターを手にし、

ロックを聴いて育ったのでした。

ブルース直系ではなく、ブルースに憧れた白人ロッカーから

影響を受けた黒人ブルースマン。

ロバート・クレイの登場と、それが白人、黒人両方のファンから支持され、

ブルースとして破格の大ヒットとなったことで

コンプレックスから解放されたロッカーはとても多かったのです。

今日お届けした曲は、ザ・ロバート・クレイ・バンドの

1986年全米22位の曲「スモーキング・ガン」でした。

11月5日(木)の名盤は…

長く活動を続けるミュージシャンは人気の浮き沈みを避けられません。

10年、20年と第一線に留まり続けることは

ほとんど不可能に近いものがあります。

結局、人気が下降してきたときに「次の一手」を打つことができた人達が

生き残ることができるのでしょう。

今日は、そんなバンドの紹介です。

アメリカが生んだ偉大なるバンド「シカゴ」。

1969年にデビューし、当時珍しかったブラス(ホーン)セクションを

大胆に取り入れたダイナミックなサウンドと政治的メッセージの強い歌詞で、

一気にシーンをリードする存在となった彼ら。

1970年から77年にかけて発売したアルバム10作連続で

全米トップ10入りさせ、名実ともにトップ・バンドとして君臨するのですが、

その後、不幸な事故やトラブルが続き、

1980年~81年頃はハッキリと落ち目になってしまいました。

追い詰められた彼らはマネジメントを代え、レコード会社も移籍し、

さらにかつてのライバル・バンドのリーダーを引き抜き、

新体制で再起を計ります。

そこへ登場したのがデヴィッド・フォスター。

今でこそヒット・メイカーの大物プロデューサーとして

泣く子も黙るフォスターですが、当時まだ駆け出しであり、

シカゴ側から見ればただの若僧に過ぎません。

その若僧が”ブラスを思いっきり引っ込めてシンセを

前面に出しましょう”などと言うのですから、

バンドは烈火の如く怒ります。

”ブラス・ロックのシカゴがブラスを抜いてどうすんだ?

せっかくの再出発を台無しにする気か?”

というわけです。しかしフォスターは冷静に、シカゴには後がないこと、

再出発だからこそ大胆に攻めること、

自分が責任をもって音を若返らせることをメンバーに説きました。

“僕はシカゴを聴いて育ったんです。

シカゴがなくなったら一番悲しいのは僕なんです“。

こうして生まれたのが「素直になれなくて」。

期待通りに久々の全米No.1を獲得。

大きくイメチェンしましたが、ここから第2期の黄金時代が始まったのでした。

「次の一手」に成功したのです。

10月29日の名盤は…

今週は1980年代にイギリス、アメリカ、そして日本でも

ヒット曲をたくさん放ったユーリズミックスを紹介しました。

作曲とほとんどの音作りを担当するデイヴ・スチュワートと、

作詞とボーカルのアニー・レノックスによる男女デュオ・ユニット。

実はアルバムごとにサウンドは変化して、柔軟で幅の広い、

音楽性豊かな人たちなのにも関わらず、

一般にはエレクトロ・ポップのイメージが強いのは、

デビューがあまりにも衝撃的だったからでしょう。

2人しかいないことを逆手にとって

全編打ち込みのテクノ/エレクトロ・ポップ・サウンドは、

他にも先駆者はいましたが、かなり早いほうでしたし、

その完成度の高さや洗練の度合いはトップ・クラスの高水準でした。

さらに他のグループと大きく異なっていたのがアニーの歌でした。

だいたいこの手のテクノ・サウンドにはワザと加工してロボット声にしたり、

加工しないまでもクールで無機質・無表情な歌声を合わせるのが

常套手段でしたが、

彼女は実にソウルフルで肉感的な生々しい歌だったのです。

一見ミスマッチな組み合わせが、圧倒的に新しいパターンでした。

おそらくはイギリス白人からしか絶対出てこない発想でしょう。

でも面白いのが、この時代はどちらかというと

アメリカでのほうが人気が高かったんです。

イギリスならではの発想だからこそアメリカで珍しかったのでしょうか。

このグループは不思議なことにイギリスでヒットする曲と

アメリカでヒットする曲が分かれるんです。

一番有名な「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」、

イギリスでは1位ですが、アメリカでは22位。

不思議といえばこの二人、もとは恋仲にあったのですが、

お互い別の人と結婚してもコンビはずっと続いています。

10月22日の名盤は…

今週は先日亡くなった加藤和彦さんを追悼したいと思います。

まずは何と言ってもザ・フォーク・クルセダーズ

~サディスティック・ミカ・バンド~ソロ活動と続く

音楽作品そのものの革新性です。

これはそのままフォーク~ロック~お洒落なアダルト・ポップスと

対応するわけですが、常に日本の音楽の最先端を走るものでした。

60年代から80年代まで、邦楽を進化させたのは

彼だったと言っても過言ではありません。

中でもミカ・バンドは非常にカルト的な支持ではあったものの

海外で高く評価されました。

35年も前に本来の意味で海外進出を果たしていた

日本のバンドがいたことを忘れてはなりません。

そしてその際に本場から学んだ様々なノウハウが日本の音楽業界全体を

底上げすることになります。

日本のエンジニアやディレクターが知識として持ち合わせていなかった

新しい機材や録音法、音作りのテクニックなどを彼だけが知っていて、

それを惜しげもなく広めていきました。

さらに日本のコンサート音響に不満を持った彼は自費でPA会社を設立、

これぞ日本初の本格的PAシステムだったのです。革命的な事件でした。

ミュージシャンはもちろん、裏方の人も、そしてファンも含めて音楽に

関わる人はすべて加藤和彦さんのおかげでコンサートを良い音で

楽しむことができるようになったことを、

ぜひ覚えておいて下さい。

さらに、世界中の音楽を聴いて勉強していた彼はレゲエや

その他のワールド・ミュージックをいち早く日本に紹介してきました。

そんないろんな意味で日本の音楽界に偉大な足跡を残した加藤和彦さん。

感謝してもしきれませんね。

10月15日(木)の名盤は…

今日はロッド・スチュワートを紹介しました。

ロッドというと近年は音楽の人というよりも、

もしかしたら女性スキャンダルの多い芸能人的なイメージを

持っている方が多いかもしれません。

でも”スケールの大きなイギリス最高のロックンロールシンガー”ということ

忘れるわけにはいきません。

彼の歴史を振り返ってみますと、名前が知られるようになった

1968年から1973年まで。

この時代はイギリスどころか世界中でも無敵な歌を聴かせてくれたのですが、

同時に自らのソロとフェイセズの一員としての年間2枚の

アルバム制作とツアーという過酷な日々で、

さらに彼は明日も考えないほど全身全霊を使った歌い方でしたから、

喉を消耗しきってしまったのでしょう。

スターとしての成功の頂点はこの後にやって来るのですが、

その時はすでにいわゆる全盛期の歌い方からするとロッドにしては、

歌手としてはやや落ちるという状態でした。

それを認めたくなかった部分もあるでしょう。

ツッパッって派手に振舞っていたように見えたのが1975年から80年頃。

最初に挙げた「芸能人的イメージ」というのは

この頃のものじゃないでしょうか。

それだけ人気はピークだったのですが。

1980年から90年代は一番良かった頃に比べると、

悪く言えば何となく小手先でごまかしているような歌になり、

人気も落ちてきます。

けれども、21世紀になると肩の力が抜けた味わい深い歌が

別の魅力を聴かせてくれるようになりました。

あくまで想像ですが、やっと昔のようには歌えない自分を

認めることができたのではないでしょうか。

地味ですが、ひたむきさがあります。

それが伝わったから25年ぶりの全米1位やグラミー初受賞に

つながったように感じます。この路線の今後が楽しみです。

さて今日は1980年の曲ですが、

この時代でも意地を見せた熱唱であり、

黒人音楽に傾倒しながらもイギリス伝統のトラッド風味を決して忘れない

彼の持ち味がよく出た名曲

「今宵焦がれて」をお届けしました。

10月8日(木)の名盤は…

今日は「スリー・ディグリーズ」を紹介しました。

1970年代に活躍したイメージが強い彼女たちですが、

結成されたのは古く、1963年です。

メンバーは15~6人ほど出入りしていますが、

女性トリオの形は崩すことなく、“最も長く活動している女性3人組

ボーカル・グループ”としてギネス・ブックに認定されています。

彼女たちの全盛期といえば何といってもメンバーが、

フェイエット、シーラ、ヴァレリーの3人に固定された

1967年から76年のおよそ10年間。

中でもフィラデルフィア・インターナショナル・レコードと契約していた

1973年から1975年は全米1位を獲得するほど波に乗っていました。

しかし、本国アメリカでの活躍はここまで。

これ以降は日本とヨーロッパでのみの人気者になります。

それにしても当時の日本での人気ぶりは凄まじいものがありました。

毎年のように来日し、普通にテレビ番組にも出演していましたから、

お茶の間への浸透度はかなりのものでした。

日本にソウル音楽を普及させた最初の功労者は間違いなく、

スリー・ディーグリーズです。

彼女達が日本で長く愛されたのはアメリカでも人気があった

全盛期に何度も来日して、

日本制作のレコードをたくさん残していることも大きな理由でしょう。

その中には「にがい涙」のような日本語で歌われる

歌謡曲風のものもありましたが、

今日お送りした1974年の曲、「ミッドナイト・トレイン」は、

作曲が細野晴臣、そして松本隆が英語の歌詞を書いた「ミッドナイト・トレイン」。

演奏も細野晴臣を中心としたティン・パン・アレーが担当の

純和製ソウル(?)ですが、英語の歌詞ということもあって、

とても国産とは思えません。

日本の音楽もここまで来た!という意味でも重要な名曲です。

なおスリー・ディグリーズ、なんと現役で、

年末には来日公演も予定されています。

ギネス記録は更新中なんです。

しかも全盛期周辺のメンバーが2人も残っているんです。すごい。

10月1日(水)の名盤は…

10月3日は中秋の名月。

今日は月にまつわる名曲を紹介しました。

今日選んだのはザ・ウォーターボーイズ、

1985年のスマッシュ・ヒット、「月の想い」です。

スコットランド出身のマイク・スコットを中心にロンドンで結成された

ウォーターボーイズですが、メンバー交代が激しく、

バンドというよりもマイクのソロ・プロジェクトと考えたほうが

いいかもしれません。

そして彼の音楽の特徴は、アルバム1~2枚毎にどんどん変化することです。

もちろん、スピリチュアルで文学性の高い歌詞と、

深みのある昂揚したボーカルという核はまったく変わらず、

一本筋が通っているのですが、それを包み込む表現法が変わるのです。

というのも、録音場所が変わるからです。

スコットランドに始まり、

ロンドン(イングランド)~アイルランド~ニューヨーク(アメリカ)。

これは他の大多数の人たちのように気分を変えるために録音スタジオを変えてみる、

というものとは違うんです。

彼は根っからの旅人であり、新しい音を求めて完全に移住し、

その地で1~2年生活することによって、

その場所特有の息吹や空気感をとらえ、その地の感動を言葉にし、

それを表現するのに最もふさわしい音、すなわち地元の音で

完成させるというスタイルの表現者なのです。

“孤高の吟遊詩人”と呼ばれるのも納得の、あまりにも不器用で

あまりにも誠実な彼の音楽に対する姿勢は、

多くのファンから共感と信頼を得ています。

この曲はロンドン時代のもので、歌詞は文学的に高度で

幾通りもの解釈ができそうですが、訳詞を読まなくとも、曲調やビート、

そして感情のこもった歌声、そして誰でも聴き取ることのできるサビの1行、

”You saw the whole of the moon”(君は満月を見た)

これだけで頭の中に情景が広がってきませんか?

言葉の壁を越えて風景を見せてくれる、

とっても素敵な名曲だと思います。

9月24日(木)の名盤は…

先週は日本では一発屋と思われがちな悲劇のバンド、

ビッグ・カントリーを紹介しましたが、

今週紹介したユニットもそれに近いかもしれません…。

今日はザ・システムのお話です。

1982年にニューヨークで結成された2人組ユニットで、

キーボートとドラムを中心とした白人マルチ・プレイヤー、

デヴィッド・フランクとボーカル担当の黒人、ミック・マーフィ。

ソウル、R&B大好きな白人とロック好きな黒人というチグハグで

ユニークなコンビが独特のサウンドを生み出します。

2人で曲を書き、2人でセルフ・プロデュース、

ごくわずかな味付け程度に外部ミュージシャンを入れることはあるものの、

基本的に演奏も2人だけで作り上げるスタイルは、

エレクトロニクスの普及によるところが大きく、

80年代の先端を行くものでした。

メンバーが少ないことを逆手にとっての打ち込み主体のエレクトロ・ファンクで、

そこそこのヒットを連発した彼らですが、ヒットの規模以上に、

同業者であるミュージシャンからの受けがよく、

楽曲提供やプロデュースの依頼が殺到。一躍人気者となったのです。

そんな彼らが外部での仕事から得たものをうまくフィードバックして、

1987年に発表したのが

「ドント・ディスターブ・ディス・グルーヴ」という曲。

それまでより少し生音の割合を増やし、

ミディアム・テンポに新境地を見せたこの曲は、

誰も聴いたことのない、正しく1987年時点で最先端のグルーヴを持ち、

全米4位(R&B1位)の大ヒットとなりました。

日本ではこれまでの彼らの情報がほとんど紹介されず、

いきなりこれから始まった感があったので、

一発屋と勘違いされているのが残念です。

この曲が業界に与えた衝撃は大きく、

この後2年間ほどこの曲を真似た数多くの曲が生まれたのですが、

当然ながらオリジナルを超えることはできません。

20年経た今なお古びず、堂々たる古典として、

R&B系のクリエイターにとって学ぶべき必須科目となっている名曲です。

お届けしたのは、

1987年の曲「ドント・ディスターブ・ディス・グルーヴ」でした。

9月17日(木)の名盤は…

今日は1980年代から90年代にかけて人気の高かったロック・バンド、

「ビッグ・カントリー」を紹介しました。

パンク・バンド、スキッズのメンバーだったスチュワート・アダムソンを

中心にスコットランドで結成された4人組で1982年にデビュー。

翌年の83年にリリースした3rdシングル「インナ・ビッグ・カントリー」が

イギリスのみならず、アメリカや日本でも大ヒットを記録。

これを含む1stアルバムも売れまくり、

一躍その名を世界に知らしめました。

しかしその後はパッとせずフェード・アウトしてしまう・・・というのは

アメリカと日本だけの話。

本国イギリスではその後もずっと高い人気を保ち続けているのです。

そういうよりも、「インナ・ビッグ・カントリー」より

ヒットしたシングルもありますし、

2ndアルバムは1stでも果たせなかった全英1位に輝いているし、

3作目以降も1stと同じくらい売れ続けているし、

イギリスに限って言うならば、日本とアメリカのファンが忘れ去った後に

全盛期がやって来たと言ってもいいほどだったのです。

一発屋だなんてとんでもない!デビュー当時はプロデューサーが同じで

音楽性も似た点の多かったU2とライバル視されていた、なんて聞けば

今の日本の若い人達は笑うかもしれませんが、

国内においては“好敵手”の名にふさわしい

健闘を10年ほど続けていた事実を忘れるわけにはいきません。

さて、彼らのサウンドと言えば、バグパイプを思わせるギターを

第一に挙げるファンが多いでしょうが、

それに勝るとも劣らない魅力がリズム隊。

バッスンバッスンと力強く切れのいいドラムと黒人ベーシストによる

ファンキーなコンビネーションを評価する同業者は多数で、

様々なセッションに引っ張りダコです。

ぜひ、そちらにも注目して聴いてみてください。

なお、スチュワート・アダムソンは2001年に他界しています。

今日お届けしたのは1983年の曲「インナ・ビッグ・カントリー」でした。

9月10日(木)の名盤は…

今日はJ.D.サウザーを紹介しました。

デトロイト出身の彼ですが、ロサンゼルスへ移り、

イーグルスやジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットなどと交流を深め、

1970年代以降のウエスト・コースト・シーンの重要人物のひとりとなります。

とは言うものの、自身のバンドやソロではヒットに恵まれず、

もっぱら先に挙げた人達への楽曲提供やセッション参加の

裏方としての活動がメインでした。

優れた作曲家&ギタリストであり、味わい深い歌手であることは

マニアなら誰でも知っていましたし、

それ以上に彼にサポートを受けた仲間達が一番認めていたので、

不運な状況を歯がゆく思っていたようです。

そんな仲間の思いが通じたのか、

幸運は思いがけないところからやって来ました。

1979年、久しぶりにソロ作品の契約を勝ち取った彼は

少しアプローチを変えてみたのです。

それまでの土の匂いのするカントリー・ロック調から、

今回はもう一つのルーツである60年代ポップスの色を強めに出し、

そして大好きなロイ・オービソンの

1960年の大ヒット「オンリー・ザ・ロンリー」を下敷きにして

改作したような曲「ユア・オンリー・ロンリー」が完成。

同じリズムを使い、サビのメロディーもそっくり、全体のアレンジも、

さらにタイトルまでほぼ同じなこの曲を人々はパクリとは呼びませんでした。

愛情に溢れたオマージュであることがちゃんと伝わったのでしょう。

なんと全米7位の大ヒットとなったのです。

日本にいい言葉があります。

「よく知られた古い和歌の句の一部分を用いて新たな歌を作る技巧のこと」を

「本歌取り」と言いますが、そう、これは「本歌取り」と呼ぶべき名曲なのです。

ロイ・オービソン本人もわかっていて訴えるなんてするはずもなく、

1987年の復活コンサートではJ.D.サウザーをゲストコーラスに迎えて、

本歌「オンリー・ザ・ロンリー」を一緒に歌うという粋な演出で、

後輩からのリスペクトに応えています。

このときのJ.D.サウザーの嬉しいような、

照れくさいような表情がたまらなく良かったです。

今日お届けしたのは、

J.D.サウザーで「ユア・オンリー・ロンリー」(1979)でした。

9月3日(木)の名盤は…

今日は1970年代のポップ・チャートを大いににぎわせた

イギリスのヒット・メイカー「レオ・セイヤー」を紹介しました。

ほぼ同時期に人気のあったエルトン・ジョン、ギルバート・オサリヴァンと並んで、

イギリス男性シンガーソングライター三羽ガラスといったイメージですが、

この3人、実はそれぞれ特徴があります。

シンガーソングライターといっても詞・曲ともに完全に一人で作るのは

ギルバート・オサリヴァン。

エルトン・ジョンは作曲中心で、詞はほとんど相棒のバーニー・トーピンのもの。

そしてこのレオ・セイヤーは逆に作詞中心で、

作曲はその時々のパートナーに任せています。

それどころか他人の作った歌を歌うことにも抵抗のない人で、

カバー・ヒットも多いです。

純粋なシンガーソングライターというよりも、作詞能力の大変優れた

歌手兼パフォーマーと呼ぶほうがしっくりくるようです。

ですから誰と組んで曲を作るか、そして誰にプロデュースされるかで

色合いがずいぶんと変わってしまうところがあって、

これが彼の長所でもあり、短所でもあるかもしれません。

でも誰と組もうが、決して変わらないものもあります。

それは、喜劇と悲劇の境界線を効果的に行き来すると称される、

悲しいのに笑える、おかしいのに涙が流れるような、とてもイギリス的な歌詞。

このへんが日本では言葉の壁のせいか、どうも伝わりにくくて、ちょっと残念です。

今日紹介するのは、誰からも見向きもされないストリート・ミュージシャンが

道ゆく人々に“旦那、1曲いかがです?明るくいきましょうよ。

そのかわりお金を恵んで下さいよ”という

やり取りを通じて庶民の人生の悲哀をユーモラスに、

かつ優しい視線で描いた名曲です。

こういう表現を書かせたら右に出る者はいませんし、

まさにこういう歌を歌うために神様に与えられたような、

明るく物悲しさをたたえた声質がたまりません。

お届けしたのは、レオ・セイヤーで「ワン・マン・バンド」でした。

8月27日(木)の名盤は…

いよいよ今度の日曜日は衆議院選挙ということで、

今週は選挙と音楽について考えてみました。

ここ日本では、ミュージシャンが自分の支持政党を表明したり、

あるいは自ら立候補したりすることは非常に少ないですよね。

ところが外国を見てみると、アメリカの大統領選を思い出しても、

有名ミュージシャン達が早々と”誰々支持”を打ち出したり、

集会に参加して歌ったりして、日本とはまるで違います。

楽曲についても、例えばビートルズの「カム・トゥゲザー」は

ある候補者の応援ソングとして作られたことは有名ですし、

日本では”お洒落な音楽”として人気の高いスタイル・カウンシルも

当時のイギリス首相を名指しで批判したり、

”対抗政党に投票しろ”と歌ったりしていました。

フランク・ザッパも大統領を直接攻撃したり、”棄権するな、

とにかく投票に行こう”と説いています。

こんな例はたくさんあります。

国民性の違い、というだけでは片付けられないかもしれないですね。

今日紹介したのは、

実は直接的に選挙を語っているものではありませんが、

“人々には力がある。想像する力がある。

夢見る力がある。団結する力、思いやる力、

物事を判定する力そ持っている”と、

人間の可能性と潜在能力を讃えた名曲です。

その中には当然ながら”一票を投ずる力”も、あえて語られてはいませんが、

入っていることだろうと思います。

今日お届けしたのは、1988年リリースの

パティ・スミスで「ピープル・ハヴ・ザ・パワー」でした。

8月20日の名盤は…

今日は、人類愛を訴える名曲

「ホワイ・キャント・ウィ・リヴ・トゥゲザー」を紹介しました。

シャーデー、スティーヴ・ウィンウッド、ジョーン・オズボーン他、

たくさんの人々からカバーされ、

クラブ・カバーやサンプリングで使われているものを加えると

数十種類ものバージョンが存在すると思われるこの曲、

オリジナルはティミー・トーマスという人です。

作詞・作曲も本人。

彼はジャズ畑で腕を磨き、1960年代後半はメンフィスで

ソウル/R&Bのスタジオ・ミュージシャンとして活躍したキーボード奏者で、

1970年にマイアミに移り住んでからユニークな音楽性が開花しました。

1972年にT.K.レコードから初めて発表したのが、この曲です。

内容以前にまず衝撃的なのがサウンド。

安っぽく原始的なリズム・ボックスのビートと、

自らのオルガンと歌だけの構成なんです。

でも、このスカスカでシンプル極まりない音が、

何とも言えぬ説得力と哀しい表情で詞の内容をダイレクトに伝えてくれます。

歌詞もわかり易く、

中学生くらいの英語力で聴き取ることが可能かと思いますが、こんな歌です。

**************************

どうしてですか。教えて下さい。
なぜ我々は一緒に生きることができないのでしょうか。
誰もが共に生きることを望んでいるのに

どうして我々は共存することができないのでしょうか。
戦争はもうたくさんです。我々みんなの願いは この世が平和になることです。

誰もが一緒に生きることを望んでいるのに                                             どうして我々は共存することができないのでしょうか。
たとえ肌の色が何であろうとも                                                   あなたが私の兄弟であることに変わりはありません。

すべての人々が共に生きたいと願っているのに 
どうして我々は共存することができないのでしょうか。

**************************

今日は、1972年のR&Bチャート1位、ポップ・チャートでも3位に入ったヒット曲、

ティミー・トーマスで「ホワイ・キャント・ウィ・リヴ・トゥゲザー」を紹介しました。

8月13日(木)の名盤は…

今週はブライアン・アダムスを紹介しました。

1980年代から90年代にかけて世界中でヒットを量産、

現在もなお各方面に影響を与える

大物ロッカーである彼はカナダ出身。

外交官の父親の異動のためヨーロッパから中東を転々とし、

12才のとき両親が離婚。

15才から母親と弟の3人で故郷のカナダに落ち着きます。

全く環境や習慣の違う国々を回り続ける少年時代を

送らねばならなかった彼の心を救ってくれたのは音楽でした。

小学校低学年からギターを始め、16才で初めてのバンドを結成。

その翌年に彼と同じくビートルズが大好きというジム・ヴァランスと

運命の出会いを果たします。

二人は意気投合し、コンビを組んで曲を作るようになります。

彼らの曲を当時のカナダの人気アーティスト達がこぞって取り上げ、

数曲がヒットしたため、大手のA&Mレコードが目をつけ、

まずはソングライターとして契約しました。

ブライアン19才の時でした。

ロックンロール指向の彼でしたが、プロ作曲家としては

様々なタイプの曲を作ることを求められます。

それも修業のうちととらえ、多くの要素をクリアした彼に

遂にソロ・デビューの話が来ますが、

時代のせいか、はたまたどんな曲も書ける器用さが裏目に出たのか、

なんとディスコ・ミュージックを演らされてしまいました。

これはカナダで1位になるほど売れたのですが、

さすがに本人はイヤだったようで、アルバムには収録されていません。

以降はその路線は1曲も作らず、ロックンロール一筋で行くことを

会社にも認めさせてしまいます。

ただ、この時代の試みは彼のキャリアに深みを与えているのは間違いありません。

この後の活躍は皆さんよくご存知かと思います。

彼の特筆すべき点はジムとの作曲コンビも、

そしてバック・バンドのメンバーもデビューから30年、

ほとんど変わらず続いていることです。

認めた者とはとことん付き合う頑固さと、

書こうと思えばどんな曲も書ける器用さ・柔軟さ。

この2つのバランスが息の長い活躍の理由でしょう。

8月6日(木)の名盤は…

今日は、このコーナー紹介した中でも一番個性的だったのでは!?

という「クラウス・ノミ」という人を紹介したいと思います。

彼は少年時代、かのマリア・カラスに憧れ、オペラ歌手を目指します。

ベルリンの音楽学校で声楽を学び、1972年にニューヨークへ渡りました。

ホテルでパティシエとして働きながら、歌手活動も続けていたのですが、

折しもニューヨークパンク勃発前後の最も刺激的だった

アンダーグラウンド・アート・シーンを目の当たりにしたことで、

オペラとロックとアートをグチャグチャにしたような独自の世界観をもつ

パフォーマンスを完成させたのです。

顔は白塗り、髪型は実写版鉄腕アトムのようで、

プラスチック製の逆三角形の上着に蝶ネクタイで

ロボットのように動きながらロックン・ロールクラブで、

ロックをオペラ風にアレンジした曲や、

正調のオペラまでも歌ってみせました。

聴かされるロック・ファンはたまったもんじゃなかったでしょうが、

これを評価したのがデヴィッド・ボウイ。

彼に衣装デザインとバック・コーラスを依頼したのです。

もっとも、あまりに強烈すぎて数ヶ月で解雇されてしまうのですが、

これで名前が広まり、ソロ・デビューを果たすことになります。

彼の本気だか冗談だかわからない異形のパフォーマンスは

世界中の一部の進歩的な人々から面白がられ、

日本でもスネークマン・ショーに参加しますが、

実はこの頃すでに彼の体は病魔に侵されていたのです。

当時はまだ原因不明の病気だったAIDS。

そして26年前の今日、1983年8月6日、

わずか2枚のアルバムを残しただけの39歳の若さで帰らぬ人となりました。

彼こそがAIDSで亡くなった著名人の第1号です。

今日は彼の中でも比較的聴きやすい曲ですが、

唯一無二の強烈なオペラ・ロックは感じられると思います。

できれば動画も見てもらいたいですね。

今日お届けしたのは、「トータル・イクリプス」という楽曲でした。

7月30日(木)の名盤は…

今日は、3回にわたってお送りしてきたニューミュージック特集、

最終回をお届けしました。

前回、ニューミュージックは古い日本の歌謡曲から、

より洋楽的な音楽へ移行するまでの橋渡しとして

音楽史における役目を終えた、というような話をしました。

しかし、本当に結局中継ぎだったのでしょうか。

実はそうでもないような気がします。

現在聴かれているJ-POPとかJ-ROCKと呼ばれる音楽、

その多くに非常に日本的な、

歌謡曲的な匂いを感じるのは私だけでしょうか。

数年前から「昭和歌謡」というキーワードが話題になったので、

世代が一回りして後追いで学習し、

意識的に採り入れている部分もあるかもしれませんが、

それにしてもあの時代のニューミュージックに

とても近い感触があるような気がするんです。

では90年代はどうだったのかと思い出すと、

例えば槇原敬之やドリカムあたりは今にして思えば、

もちろん10年分の進化はあるのでしょうが、

ほとんどニューミュージックと言ってもいいように感じるんです。

何のことはない、言葉が死語になっただけでニューミュージック的な音楽は

実はいつの時代も常に日本人のすぐ隣にあり続けているのかもしれませんね。

さて、ニューミュージックの名盤、最終回の今日は原田真二です。

彼については本当に素晴らしい才能の持ち主です、とだけ紹介して、

最後にひとつ、今回の特集を通じて感じたことを。

彼にしても先週の八神純子にしても作詞作曲能力が

優れているにもかかわらず、初期のシングル曲は詞に関しては

ほとんどプロの作詞家の手によるものなんです。

当時の音楽産業が子どもではなく大人を対象にしていた背景も

あると思うのですが、大人っぽく文学的に美しいです。

最近のヒット曲が確かに自分の言葉かもしれないけど、

あまりに稚拙な語彙しか持ってなかったり、

言いたいことを詰め込んで譜割りが変だったり、

韻を踏むために無理な言葉遣いになっているのを耳にするたびに、

ニューミュージックのこういった手法はヒントになるような気がします。

今日は、1978年の曲、原田真二で「タイム・トラベル」をお届けしました。

7月23日(木)の名盤は…

今週は、

3回にわたってお送りするニューミュージック特集の2回目でした。

結局ニューミュージックブームの何が一番画期的だったかというと、

それまで演歌や歌謡曲しか日常的に聴いてこなかった大多数の日本人に、

初めて洋楽的な音を届けたことに尽きます。

今までになく垢抜けた”新しい音楽”がAMからもFMからも、

さらにテレビからも流れるのですから自分達の世代の音楽を探していた

若者を中心に人気が爆発しないわけがありません。

1978年から81年ぐらいは毎週トップ10チャートの半数近くを

ニューミュージックが占めるほどの大ブームとなりました。

まさにニューミュージックの時代でした。

しかし、人気の盛り上がりとともに問題も生じてきます。

試行錯誤のすえ、結果としてどこにも属さない新しい音楽となった

はずだったのに、それ自体がひとつのジャンルになってしまい、

ニューミュージックであることを目的とする

質の低いものが乱造されだしてしまって、

ちっとも新しくなくなってきたのです。

まぁ、ニューミュージックに限らずどんなものでも黎明期が一番勢いがあって、

それが確立してしまうと急に失速するのは世の常ですね。

さらにニューミュージック系のアーティスト達が歌謡界に

楽曲提供することも大幅に増えたことにより、

歌謡曲との境界が完全に崩壊してしまいます。

自分で自分の首を絞める結果になったんですね。

最後にもう一つ。

ニューミュージックに慣れたリスナーはより強い刺激を求め出し、

ニューミュージックの成功でノウハウを学んだテレビ局や

レコード会社の利害も一致したことで、

歌謡の香りがほとんどしない、水で薄められていない純ロック系の音楽が

ついにお茶の間に進出してきたのです。

これがとどめとなり、ニューミュージックブームは

急速に終焉を迎えたのでした。

さて、続きは来週にして今日はニューミュージック全盛期の名盤、

八神純子を紹介しましょう。

彼女はピアノ弾き語りのシンガーソングライター。

どんな曲でもサンバ・ホイッスルが活躍するラテン風味が特徴で、

何といっても歌声が素晴らしい。

あとこの曲のポイントはベース・ライン。極めて洋楽的です。

今日お届けしたのは、1978年の曲「想い出のスクリーン」でした。

7月16日(木)の名盤は…

今週から3回にわたってニューミュージック特集をお届けします。

35才以上の方ならば感覚的にどんな音楽を指すのか

おわかりだと思いますが、リアルタイムで体験のない若い人に

言葉で説明しようとすると、これが実に難しい。

私なりに定義を考えてみたのですが、

”1970年代後期から80年代初期にかけてブームとなった、

歌謡曲よりはるかに洋楽テイストが濃く、

しかし純ロック/フォークほど硬派ではない、

独特の都会的雰囲気をもった日本のポップス”といった感じでしょうか。

要するにそれまでの分類ではどこにも属さない”新しい音楽”という

意味のネーミングなのでしょう。

定義を補足する主な特徴としては、例外もありますが、

歌謡曲と一線を画すものとして、

①バンド形態、もしくはソロでは何らかの楽器を弾き語る場合が多い

②基本的に自作自演である。

そして本当にとんがったロック/フォークの人達と違って

③テレビにどんどん出た。・・・といったことが挙げられます。

だから言葉を代えれば”DIY精神を持った歌謡曲”とも

“テレビサイズに縮小・希釈されたロック”とも言えるかもしれません。

今から振り返るとそんな中途半端で曖昧な存在でありながら、

いや、だからこそ絶妙なハイブリッド感覚の名盤が多数生まれています。

今日紹介するのは大橋純子。

1回目から先ほど挙げた特徴の例外的な人で、

曲は自分では作りませんし、楽器も演奏しません。

しかし、後に一風堂を結成する土屋昌巳をはじめとするロック・バンド、

美乃家セントラル・ステイションがバックを固めているので

歌謡曲とは差別化されています。

でもバンドは決して自己主張せず、あくまでも抜群の歌唱力を誇る

大橋純子の歌を前に立てて、バッキングに徹しているところが、

まさにこの時代のニューミュージックならではの味わいです。

若いリスナーの皆さんにはどう感じられるでしょうか?

今日は、1977年の曲「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」で

「シンプル・ラブ」をお届けしました。

7月9日(木)の名盤は…

今週は1960年代に人気の高かったアメリカのバンド、

ザ・ラヴィン・スプーンフルを紹介しました。

1965年にニューヨークで結成された4人組で、

当時特にここ日本では同じ時期に人気のあった西海岸のバンド、

ザ・バーズやママス&パパスなどと同じフォーク・ロックの仲間に

分類されていました。

それは間違いではないのですが、アメリカのフォークを、

イギリスのビートルズをはじめとするビート・バンドの影響のもとエレキ化した、

西海岸勢と比べると、彼らの場合はイギリスからの

借り物がはるかに少なく、独自の音楽性を持っていたのです。

それは何かというと、古き良き時代のアメリカのルーツ・ミュージックの要素。

多くのフォーク・ロック勢がフォーク、ブルース、カントリーぐらいしか

ルーツを持っていなかったのに対し、ジャズやジャグバンド、ラグタイム、

スキッフルといったいにしえの楽しい音楽をも吸収し、

ロックの時代に甦らせたのが彼らだったと言えるでしょう。

そんなことから今では彼らの音楽を”グッド・タイム・ミュージック”と

呼ぶことが一般的となっています。

初めてなのに懐かしい、そんな楽しいロックンロールで、

デビュー以来次々とヒットを連発する彼らですが、

全盛期は2年ほどで突然終わりを告げます。

メンバー2人が麻薬で逮捕されたことでファンが離れてしまい、

メンバー交代で頑張ったのですが、二度と人気が戻ることはなく

解散へ追い込まれたのでした。

しかし彼らがアメリカの音楽シーンに果たした功績は今なお光り輝いています。

なにしろビートルズが知らないアメリカを叩きつけてみせたのですから。

今日は彼らの1966年の全米No.1ヒット曲をおかけしました。

どちらかというとストレートなロックンロールで、

今まで語ってきたような古き良き時代の要素は少ない曲なので

申し訳ないのですが、「夏は暑くて汗だくでイヤだなー」という、

まさに今の気持ちを代弁する名曲「サマー・イン・ザ・シティ」でした。

7月2日(木)の名盤は…

今週はソウル・バラードの名曲、ラヴ・ソングの定番、

「男が女を愛する時」のお話です。

歌手はパーシー・スレッジ。彼は成人するまで黒人の歌手がいるなんて

知らなかったほどのアラバマの田舎町の病院で働いていました。

24歳の時、アラバマ州の中でも都会のマッスル・ショールズのレコード店へ行き、

偶然そこにいた友達から店主に紹介されます。

その店主はスタジオも経営していて、一獲千金を夢見て歌手を探していたのです。

言われるままに歌って聴かせたのがこの曲の原曲でした。

光るものを感じた店主は何ヶ月もかけて歌詞とメロディを手直しして、

プロのバンドを借りてきて録音しました。

後からダビングしたホーンの音程がズレていましたが、

歌も同じくらいはずれているからとOKします。

完成したこの曲をニューヨークのソウルの名門アトランティック・レーベルへ

売り込みたい店主ですが、コネがありません。

そこにプロのバンドを貸してくれた友達が現れ、

口から出まかせに「あそこの社長とはツーカーだからまかせろ」と

ニューヨークへテープを送り、「絶対1位になる曲だ」とハッタリをかまします。

それが効いたのか、まんまと契約が成立、一世一代の賭けに勝ったのです。

しかし「録音し直すべし」と条件が付きました。

店主たちは「やはり音程のズレがバレたな」と頭をかきながらも

費用は向こう持ちなので喜んで新しく吹き込み直し完成となりました。

レコードが発売され、期待通りにチャートを上昇し始めた頃にニューヨークから

電話がかかってきます。

「ほら、作り直して正解だっただろ?」

「いや、今ラジオから流れてるのは元のやつだよ」。

なんとアトランティックは間違って元の音程の悪いテイクを

プレスしてしまっていたのでした。けれども、そんな音程のズレなど

関係なく誰が聴いてもロマンティックは大傑作であることは

間違いありません。この曲は偶然の出会い、ハッタリ、手違いと

3つの魔法がかけられて、

名曲になるべくしてなった運命の1曲と言えるのかもしれませんね。

今日は1966年の曲「男が女を愛する時」を紹介しました。

6月25日(木)の名盤は…

今週は「ジャニス・イアン」を紹介しました。

皆さん、ジャニス・イアンという名前を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか。

若いリスナーの方は初めて聞くという人がほとんどかと思いますが、

40代半ば以上の方ならば、日本のTVドラマや映画の主題歌を多く歌った、

親日家のポピュラー歌手というイメージが大半を占めるのではないでしょうか。

確かにそういう側面もあって1970年代後半は日本で大人気だった彼女ですが、

そんな一言では語ることのできないほど重要な音楽家なのです。

デビューは1966年、なんと15歳でした。

しかも作詞作曲、ギター演奏も自分の手によるものです。

さらにそのデビュー曲「ソサエティズ・チャイルド」は

黒人の男の子と白人の女の子が交際するという、

当時はショッキングな内容で、レコード発売を拒否されたり曲をかけた

ラジオ局が放火されたにもかかわらず、なんと全米1位になったのです。

天才少女の登場と騒がれたのも当然でしたが、ヒットはこれだけ。

アルバム5枚は時代の先を行き過ぎたためか、

それほど売れませんでした。

けれどもこの時代の彼女の作品のジャズとR&Bとフォークを

混ぜたような独特で高い音楽性と社会派メッセージこそが、

後の女性SSWに与えた影響は大きかったのです。

ジョニ・ミッチェルよりもローラ・ニーロよりも先に

ジャニス・イアンがいたことを覚えておく必要があるでしょう。

しばらく充電した後、1974年に復活、ぐっと大人になって

ポップになったここから大成功を収めることになり、グラミー賞も獲ります。

初期と完全に別物の音楽になったわけではないのですが、

かなり大衆的で、わかりやすくなったこの時代以降から前述のように

日本で人気となったので、マニアックなリスナーには見過ごされて

しまったのが惜しかったかもしれません。

1980年代は離婚、2度の大病、破産と不幸に見舞われましたが、

1993年に約10年ぶりに復活。

初期のようなシリアスな音楽に立ち戻り、

マニアも納得の好作を作り続けています。

全盛期を知っている人にこそ、先入観なしにぜひ聴いてもらいたいです。

今日お届けしたのは、

1993年リリース、ジャニス・イアンで「走り続ける列車」でした。

6月18日(木)の名盤は…

今週はケニー・ランキンを紹介しました。

先週、また悲しい知らせが届きましたね。

ベテラン・シンガー・ソングライター、「ケニー・ランキン」が

肺がんのため亡くなりました。大ヒット曲があるわけでもなく、

特に日本では全盛期の作品が入手困難な時代が長かったので

“知る人ぞ知る”存在でしたから、一般紙に訃報が載っていたのが

不思議な感じがしましたが、でも今や日本のファンが実は

一番彼の偉大さを理解しているのかもしれません。

1970年代に活躍したイメージが強いので、

享年69才と聞いてびっくりしましたが、デビューは1957年(!)とのことなので、

プレスリー等とほとんど変わらない人だったんですね。

もっともこの時はまだ若すぎた(10代!)ためか全くヒットせず失敗に終わります。

再デビューは1967年まで待たなければならなかったのですが、

この間にボブ・ディランのセッションに参加したりして腕を磨きます。

そして決定的だったのが、ブラジル音楽ボサ・ノヴァとの出会いでした。

すっかりこれに魅せられた彼はボサ・ノヴァ独特のノリとフィーリング、

そしてギター奏法を完璧に自分のものにしたのです。

再デビュー以降の彼の音楽は、これにジャズの要素ともともと自分が

得意だったポップスを掛け合せたような独自のフォーク・ロックと

いったものです。今ならAORと呼ばれるものに近いのですが、

時代的にはAORが誕生するよりずっと早く、

当時としてはどう扱っていいのか、ファンもメディアも戸惑ったようです。

内容の充実に比べると、商業的には恵まれませんでした。

ただ、同業者からは高く評価され、多くの曲がカヴァーされています。

そんな彼を1990年代に見出し再評価したのが、実は日本なんです。

しかも意外なところから。

クラブDJ達が彼の音楽の気持ちよさに気付き、

ちょっとした人気になったんです。

全てのCDが再発され、今や日本が一番音源を入手しやすいようです。

後追いの若い世代から指示されていたケニー・ランキン本当に残念ですね。

お届けしたのは、

1972年リリース、ケニー・ランキンで「ライク・ア・シード」でした。

6月11日(木)の名盤は…

今週は「ヴァン・ヘイレン」を紹介しました。

ロックはイントロが命。

カッコいいイントロでリスナーの耳をこちらに向けさせることができれば、

もうヒットは約束されたようなもの…。

まさに名曲に名イントロあり、ですが、その中でも最も有名なもののひとつが

現在ドラマの主題歌としてリヴァイヴァルしているこの曲でしょう。

ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」。

洋楽を聴かない人でさえも“ああ、あれ!”という意味では、

イントロ知名度トップ3に入っているのは間違いないと思われます。

さて、このヴァン・ヘイレン、1978年のデビュー以来、

HR/HMファンの間では大人気でしたが、

ヒット曲は他人のカヴァーばかりで、一般的人気は一流半といった感じでした。

そんな彼らの初めての自作ヒットであり、

初の全米No.1獲得曲が1983年リリースのこの曲です。

何といっても、イントロで印象的なシンセサイザーを全編に

大胆に導入したポップでキャッチーなアレンジガHR嫌いの人にも

受け入れられ、世界のトップスターの座を手に入れたのですが、

古くからのファンはあまりにも下世話な感じにとまどいました。

しかし、脳天気なまでの明るさはこのバンドのある意味本質ですし、

シンセイばかりが話題になる中で間奏のギター・ソロはアイディアも

テクニックもHRギターの教科書と呼ばれるほど充実した

ベスト・プレイですから、突然変異でも何でもなく、

これぞヴァン・ヘイレン節そのものと言えるのかもしれません。

もうひとつ、実はこの曲、先週紹介した、

クリストファー・クロス「オール・ライト」のパクリ疑惑があるのですが、

AORポップスをHRにしてしまったわけで、

他人の曲を自分達の音でカヴァーするのを得意としてきた彼らの

真髄と言えなくもない?それにしてもこのイントロ。

このシンセの音色は最も80年代を代表するもので、

ということは古臭く感じるはずなのに少しも時代を感じさせず、

今なお愛されているのは不思議ですね。

これぞ名曲のみが持ちうるマジックなのでしょう。

6月4日(木)の名盤は…

今日はクリストファー・クロスを紹介しました。

1980年前半、全く無名の新人アーティストのデビュー曲が

全米チャートを急上昇しました。クリストファー・クロスの「風立ちぬ」です。

優しく透き通ったハイトーンの歌声と流麗なメロディライン、

都会的なアレンジは、日本でも大人気となりましたが、

本人に関する情報は全然入ってきません。

これは本国でも同じで、デビュー後数ヶ月は、ライブもせず、

TVにも出ず、アルバムにもイメージ・キャラクターのフラミンゴの絵が

描かれているだけで顔写真のひとつもなかったのです。

これは完全にレコード会社の戦略の成功でした。

遂に初めてその姿を公の場に披露したとき、

おそらく日米あわせて100万人のファンは皆「えーっ」と

声を出したに違いありません。

それほど歌声とギャップのあるルックスだったのです。

本人が自分のルックスをどう思っていたのかは分かりませんが、

もともとハード・ロックを演っていたのに声質が向いていないため

断念したそうなので、自分のやりたい音楽と己の美声とのギャップに

悩まされたのは間違いないでしょう。

ともあれ、これ以降、意識的にメディアに露出しない戦略は

多用されるようになります。

その意味でもエポック・メイキングな名盤といえそうです。

ギャップという点ではもう一つ。

それは歌詞です。今日お届けした「風立ちぬ」、

曲調と歌声からは想像できないと思いますが、

実は”10人を撃ち殺した無法者が国外まで逃げれば自由になれるという

メキシコ国境を目指し馬を走らせる”という内容なんですよ。

イメージと内容とのギャップの大きな名曲って意外にたくさんあるんですが、

その中でもかなり上位にランクされるのがこの曲です。

そういえばこのクリストファー・クロス、ルックスにも、

そして美声にも似合わず、カー・レーサーとしても活躍しています。

ほんと、ファンの裏をかくのがお好きな人のようです。

5月28日(木)の名盤は…

今日は、ティナ・ターナーを紹介しました。

一時期は引退の噂もありましたが、去年から今年にかけて

8年ぶりに復帰ツアーを行うなど、

日本流に言えば古稀とは思えないような歌声と脚線美を披露してくれた

”ソウルの女王”です。

しかし、彼女の人生は現実に映画化されたほどドラマチックなものでした。

まだ10代の少女だったアンナ・メイ・ブロックは、大物ブルースマン、

アイク・ターナーに見出され、ティナと名付けられます。

その後結婚し、アイク&ティナ・ターナーという夫婦デュオとして1960年代から

70年代前半にかけてヒットを連発、トップ・スターに昇り詰めます。

子宝にも恵まれ、外から見ると幸福の絶頂に思われましたが、

実はアイクはたいへんな男で、愛人は多数作るは、麻薬中毒だは、

ティナを殴る蹴るの暴力で奴隷のように虐げていたのです。

長年苦しみに耐えてきたティナでしたが、1975年、遂に離婚を決意。

ですが、この時の条件が”夫婦時代に築いた財産はすべて夫のものとする”という

最低のものでした。

さらにデュオ名義で出した曲は契約の関係で歌うことができず、

大都市ではアイクの圧力で仕事を干され、

地方をまわって食い繋ぐより他はなかったのです。

70年代後半から80年代初頭にかけて彼女の名前は

表舞台からほぼ消え去ってしまいました。

生活保護さえ受けていたと後に語っています。

1983年、救いの手は意外な所から差し延べられました。

海を越えたイギリスの、しかも二世代も若く、

音楽性も異なるニューウェイヴの連中が声を掛けたのです。

彼女も最初は驚きましたが、イギリスならいやがらせも届かないし、

歌える場があれば何でもいいと飛んで行きます。

こうして制作されたアルバム「プライヴェート・ダンサー」は

歌える喜びと若い感性に溢れた傑作となり、ヒットも多数生まれ、

グラミー賞を獲得したのです。

奇蹟の復活、いいえ、彼女は45歳にして初めて

本当の自分を見つけ出したのかもしれませんね。

5月21日(木)の名盤は…

今週は”アメリカン・ロックの良心”と呼ばれる男、

トム・ペティを紹介しました。

ブルースやカントリーなどのアメリカ音楽のルーツに根ざした

音楽性はもちろん、不遇に泣かされている先輩ロッカーたちを手助けして

第一線に復帰させたり、

幅広い世代の音楽仲間からリスペクトされていることが”良心”と

いわれる所以ですが、ただ”いい人”というだけで

40年もトップに立ち続けることはできません。

強い意志を持った燃える男なのです。

まずアマチュア時代にレコード会社からソロ契約を打診されたのですが、

「俺達はロックンロールバンドだ。バンドとしてでないと契約しない」と

頑なに拒否。このためデビューが何年も遅れてしまいました。

でも、その仲間こそ後にアメリカ屈指の名バンドと称される

ザ・ハートブレイカーズですから、

スカウトマン達も見る目がなかったということでしょうか。

やっとデビューしたものの、その会社との契約トラブルで裁判となり、

活動休止を強いられます。

なんとか移籍できたら、今度は新会社とレコードの価格で対立。

結局彼らは自らの利益を削ってまでファンのために

安い価格を認めさせたのです。

最近でもツアーのチケットをめぐって会社とやり合い、

これも殿堂入りしている大物バンドとは思えないほどの

安価なチケットを提供して関係者を驚かせました。

自分の美学を貫く信念は常にファンへの優しさに裏打ちされているのです。

だからこその”良心”なのでしょうね。

余談ですが、3年前にこんなことがありました。

ある世界的人気バンドの大ヒット曲が、トムの作品からの

盗作ではないかと騒がれたのです。

「訴えるべきだ」という声に対してのコメントがシビれます。

「いいさ。模倣は最高の賛辞だろ。」どうですか、このビッグ・ハートぶり。

日本では今ひとつ人気がないのが残念かつ不思議でならない、

愛すべきロックン・ローラーです。

今日は、1981年の曲「孤独な世代」をお送りしました。

5月14日(木)の名盤は…

今日は、

ロックの殿堂入りも果たしている大御所、

「フリート・ウッド・マック」を紹介しました。

このバンド、イギリスでゴリゴリのブルース・ロックをやっていましたが、

メンバー交代を繰り返し、どんどんポップなサウンドへ変化し、

遂には活動拠点をアメリカへ移して、

初期とはまったく別モノのようになります。今では多くのファンが、

もともとアメリカのバンドだと思っているようです。

アメリカ移住後、1975年のLP「ファンタスティック・マック」が

500万枚の大ヒットとなり、ここからが全盛期と言えます。

この時のメンバーはミック、ジョン、クリスティン、リンジー、

そしてスティーヴィの5人。

同じ面子で次の作品を制作中にドロドロのトラブルが同時多発します。

まずリーダーのミックが離婚。夫婦だったジョンとクリスティンも離婚。

恋仲にあったリンジーとスティーヴィは破局と、全員が心身共にボロボロで

お互いの信頼関係も崩れ、とても気まずい状態で、

それでも制作は続いていきます。

そんな中、自然とみんなが元パートナーへの怨みつらみ、あてつけを歌にし、

大暴露大会とも言える楽曲が集まりました。

お互い曲を受け取った時はどんな気持ちだったか分かりませんが、

”それはそれ、これはこれ”と割り切ったのか、

あるいは優れた表現の前には個人的な怨みつらみは関係なかったのか、

とにかく全員が卓越したプロであり、生粋のミュージシャンだったのでしょう。

こうして1977年に完成したLP「噂」は、完成度が極めて高く、

ビシッとした緊張感が筋の通った大傑作となったのです。

結果としてバンドに巨万の富と名声をもたらしたわけですが、

当人達にとっては、自らの苦しみや悲しみを音楽にぶつけることによって

救われるという、あまりにもミュージシャンでしかない自分を

再発見できた喜びも大きかったのかもしれません。

この後10年もこの5人でバンドが続いたのですから。

1000万枚を超えるメガ・ヒットを記録し、

ロック史上に輝く名盤の裏に隠されたドラマのお話でした。

今日は、フリートウッド・マックで「ドリームス」をお届けしました。

5月7日の名盤は…

今日は、

今月2日に58歳で亡くなられた忌野清志郎さんについてお話しました。

あえて愛をもって「清志郎」と呼び捨てにさせていただきたいと思います。

功績についてはメディアでいろいろと語られていますが、

結局のところ清志郎はその時その時に興味、関心があることを、

自ら見聞きした、体験したことを信じて歌っていただけなんじゃないかと

思います。チェルノブイリの事故が起これば、

「牛乳が飲めなくなるのは嫌だなー」と思い、

子どもが生まれれば親バカ丸出しの歌を作り、

君が代が国歌なら国民であるオレが歌ってもいいだろうと行動する。

そしてそのフットワークの軽さ、自由さこそが彼の思うところの

ロックだったのではないでしょうか。

だからメディアから反原発ロックとレッテルを貼られ、

まつり上げられようとした時も、

「反原発ロックなんかじゃねー。ただのロックだ。」と言い切ったのでしょう。

反対に自由ではなく思ったことができない状態や人については、

「ダサい。さえない。」として忌み嫌い、徹底的に戦いました。けれども、

辛らつで過激な言い回しの中にも必ずユーモアと茶目っ気を

忘れることはありませんでした。

風刺が効いているというか、言葉は変かもしれませんが、可愛いんです。

言いたいことを言うだけではなく、

表現としてあまりにも優れているということでしょう。

そのことに関しては作詞の才能を見落とすことはできません。

それまでどうしても間延びしたり、

それを逃れようと英語風の発音でごまかしていた日本語を

きっちりと美しくロック・ビートに乗せたのが清志郎です。

グルーヴ感を失わずにはっきり聞き取れる日本語ロックを発明したのが

彼だということを覚えておきたいと思います。

4日に続いて9日にあるお別れ会も大ロックンロール葬になるようです。

番組では、今日は清志郎のある言葉と共に1曲お送りしました。

清志郎の子分的存在だったヒルビリー・バップスというバンドのメンバー

宮城宗典が亡くなった時、

彼の追悼ライブに出演した清志郎がこんなセリフを言って歌いました。

「いなくなった者より残された者のために」。

いろいろと考えたのですが、「いなくなった者より残された者のために」も

派手なロックンロールで清志郎を送りたいと思います。

お届けしたのは、

RCサクセション「ドカドカうるさいロックンロールバンド」でした。

4月30日の名盤は…

今日は、

洋楽につけられる日本語のタイトル、”邦題”に注目してみました。

ひと昔前までは洋楽の曲やアルバムには邦題がつけられるのが

当たり前でした。原題を直訳したものもあれば、詞の一部を引用したもの、

あるいはイメージというか直感だけで勝手につけたものもあります。

こういった邦題の中には実に秀逸で、原題よりもはるかに強く我々の心に刻まれて

市民権を獲得したものもたくさんありますが、逆に“ちょっと悪ノリしすぎ”で

ハズしてしまったものも同じくらいいっぱいあります。

そんなタイトルはレコードからCD化される時や、

再発売される時に整理されることも少なくありません。

例えばシンディ・ローパーの「ハイスクールはダンステリア」。

これは今のCDでは原題そのままの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」に

変更されています。

ただ、これなんかはいかにも80年代!という感じで確かに今となっては、

カッコよさが分かりにくい邦題かもしれませんが、

リアルタイムで聴いていた世代にとっては、

そのタイトルで強烈に覚えているわけで、

今さら変えられても・・・という人も少なくないと思います。

今日紹介したのはそんな邦題をめぐっての非常に珍しい例となった曲です。

曲そのものは皆さんご存知の、カルチャー・クラブのとても有名な曲なんです。

カルチャー・クラブは1982年、

シングル「ミステリー・ボーイ」で日本デビューしました。

そして1stアルバムが発売され、2ndシングルとしてその中から「冷たくしないで」と

邦題をつけた曲を発売することになりました。

ところが、当時、イギリスの最先端の音楽を直接入手して聴いていた、

一風堂の見岳アキラが、

この曲をすでに自分で邦題をつけて日本語でカバーし、

なんとシングル・カットしていたのです。

カルチャー・クラブのレコード会社は「違う曲と思われるのもなんだから」と、

見岳さんのタイトルに合わせることにしました。

こうして原題とも詞の内容ともまったく関係ないタイトル「君は完璧さ」が誕生。

邦題が2度つけ直された珍しいケースとなったのでした。

という事で、今日は君は「完璧さ / カルチャー・クラブ」を紹介しました。

4月23日(木)の名盤は…

今日は、

最近某第3のビールのCMでよく耳にするあの曲を紹介しました。

「ギミ・サム・ラヴィン」という曲で、ブルース・ブラザーズの

カバーでもヒットしていますが、オリジナルは1960年代、

イギリスのザ・スペンサー・デイヴィス・グループです。

世の中にはバンドに限らず、リーダーが一番存在感が薄い、

というグループがたまにありますが、

自分の名前を前面に押し出しているにも関わらず、

目立った活躍をしていないという意味では、

このスペンサー・デイヴィス・グループ゜における

スペンサー・デイヴィスもまさにそんな一人です。

ではこのグループで目立ったメンバーが誰かと言うと、

リード・ボーカルであり、リード・ギター、キーボードをこなし、

ヒット曲のほとんどを作曲したバンドの顔、スティーヴ・ウィンウッドです。

後にトラフィックを結成し、さらにソロに転じ、

イギリスのみならず世界のビッグ・ネームとなる彼の

プロとしてのキャリアの出発点となったのが、このグループだったのです。

このウィンウッド、楽器をなんでもこなすマルチ・プレイヤーで、

作曲能力があり、さらに歌も、という人は少なくないのですが、

そのどれもが異常なまでにレベルが高いという、

類まれなる音楽的才能の持ち主で、しかももっとすごいのが、デビュー当時16才、

この曲の時点でまだ18才という若さだったんです。

特に歌。とても十代のものとは思えません。若さはあっても幼さはありません。

21世紀の現在、十代でデビューするアーティストは

「若いのに素晴らしい」というような評価をされがちですが、

40年前に「若いのに」という枕詞なしに、

大人と同じ土俵で互角以上に戦っていたのが彼だったのです。

昔がとんでもなかったのか、今が過保護なのか。

まぁ、音楽的才能に年齢の要素を加味すると、

本当の天才はスティーヴィ・ワンダーとスティーヴ・ウィンウッドの二人だけ、

なんて言われるほどの別格の人なので単純に比較は出来ないでしょうけれど。

今日お届けしたのは、

スペンサー・デイヴィス・グループで「ギミ・サム・ラヴィン」でした。

4月16日(木)の名盤は…

今日は「人生、どこにチャンスが転がっているか分かりません」という

”トレイシー・ウルマン”のエピソードを紹介しました。

トレイシー・ウルマンはイギリスの売れない女優でした。

テレビバラエティに出演するようになり、

コメディエンヌとして認知され始めた1983年初頭。

美容院で隣り合わせたおばさまから声を掛けられます。

「あら、テレビに出てる人よね。私、大ファンなのよ。そうだ、あなた、

うちの主人の会社からレコードを出してみない?」と。

そう、このおばさまのダンナさんというのが、エルヴィス・コステロを

世に送り出し、大人気バンド、マッドネスを抱え、

当時一番勢いのあったインディ・レーベル、

スティッフ・レコードの社長だったのです。

トレイシー・ウルマンはもともとミュージカル志望で

歌のレッスンを積んでいましたし、歌が大好きな彼女は、

この運命の出会いに身をまかせることにしました。

優れた才能を集めて制作されたアルバムのコンセプトは

“60年代ガールズ・ポップ”。

甘くノスタルジックなムードの中にもニューウェイヴを通過した

同時代性が同居したサウンドの完成度は高く、

彼女のキュートかつ確かな歌唱力も素晴らしく、すぐに大ヒットしました。

ノヴェルティ・ソングを歌うタレント、という形をとらず、

一人の新人歌手として本格的に制作した作戦の勝利だったと言えるでしょう。

一気に大ブレイクした彼女でしたが、ヒット・シングル6枚、

アルバム2作だけで人気絶頂の中、わずか19ヶ月で歌手を引退。

本業へ戻ってしまいます。

実はシングルの1曲が海を越えて全米8位のビッグ・ヒットとなり、

アメリカのテレビ界からオファーが来たのです。

アメリカに渡った彼女は、なんと「トレイシー・ウルマン・ショー」という

トーク番組の司会に抜擢され、この国でも人気者となったのです。

さらに本当の本業、女優としても「殺したいほどアイ・ラヴ・ユー」、

「おいしい生活」、「アリーmyラヴ」などに出演し、

エミー賞を受賞する活躍で、一流の仲間入りを果たしています。

長年の夢が叶ったんですね。

今では歌手として歌うことはありませんが、昔の人脈を活かして

ガン撲滅チャリティコンサートを主催するなど、自分を育ててくれた音楽界とは

良い関係を保っているようです。

それにしてもわずか1年半の歌手活動しかしていない女優のCDが、

25年後の今なお何枚も普通に売られ、なおかつ音楽的にも

高く評価されているなんてすごいですよね。

彼女の作品がいかにエヴァーグリーンな名盤なのかがよくわかります。

4月9日(木)の名盤は…

今日は「サヴァイヴァー」を紹介しました。

このバンド、1970年代初めから様々なバンドを経て、

文字通りしぶとく“生き残って”きた5人のメンバーで結成、

1980年にデビューするもヒットに恵まれずにいましたが、

1982年、なんと、あのS.スタローンから「ロッキー3」の

主題歌のオファーが来たのです。

これに提供したのが「アイ・オブ・ザ・タイガー」。

6週連続全米1位の大ヒットとなり、一躍成功を勝ちとったはずでした。

ところがツアーに出てもトリは取らせてもらえず、ベテランの前座ばかり。

グラミー賞まで受賞したにもかかわらず、です。

それどころか、サヴァイヴァーという名前があまりにもロッキーの人生と

マッチしすぎているために“実はあれはスタローンが作った架空のバンドで、

作曲もスタローン本人である”という根も葉もないデマまで広まってしまい、

次のアルバムは大コケ、

ヴォーカルが脱退と一転して崖っぷちに立たされたのです。

なんとか新歌手を迎えて、

地道にまた生き残りをかけようと動き出した1985年、

再びスタローンから「4」の主題歌を依頼されます。

この依頼を受けるべきか?今回ばかりはさすがに考え込みましたが、

結局、感謝とリヴェンジの両方の気持ちでこれを受けることにしました。

そして今度はバラードを推したのですが、

映画製作サイドが選んだのは前回と同じ路線の「バーニング・ハート」でした。

全米2位の大ヒットとなったものの、

口の悪い人たちは「またロッキー?」「似たような曲ばかり」と言い出します。

しかし、何度も困難をサヴァイヴしてきた彼らは、

こんな声を予測していたように6作目のアルバム「ホエン・セカンズ・カウント」

には「バーニング・ハート」をあえて収録せず、

新曲ばかりで完成させ、ここから3曲のヒットを放ち、

内容的に最高傑作との評価を獲得したのです。

逆境に負けず、しぶとく生き延びてきた者の意地を見せた一撃でした。

(しかしここで力尽き、次作はまたもや大コケ、

遂に90年代をサヴァイヴすることはできませんでした。)

今日はそんなサヴァイヴァーの1986年のナンバー、

「ロッキー4」のために最初に作った

マン・アゲンスト・ザ・ワールドを紹介しました。

4月2日(木)の名盤は…

今日は”バンド名”をテーマにお送りしました。

以前、本来外国語の固有名詞であるバンド名を

日本でカタカナ表記することの難しさについてはお話しましたが、

今日は英語を母国語とする人たちにとってはどんな感じに聴こえるのか、

そしてそれはカッコいいのか?ということをちょっと考えてみました。

例えば「シカゴ」、「ボストン」といった地名をグループ名とするバンド。

これを日本語に当てはめて考えてみましょう。

地名のグループ名と言えば「平川地一丁目」という名前がありますね。

次に「ヴァン・ヘイレン」や「ネヴィル・ブラザーズ」。

これを日本語で考えて見ますと、バンドじゃありませんが、

「中川家」とか「吉田兄弟」といった感じでしょうか。

それから「エヴリシング・バット・ザ・ガール」とか

「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」などの、

ほとんど文章になっているバンド名は、

「勝手にしやがれ」とか「それでよかったのか?」というのに近いですね。

この辺りまでは案外、英語を母国語をとするネイティヴな人達にも

違和感はないのかもしれませんが、英語のバンド名と言いますと、

最もポピュラーだと思われるのは「ザ・何々ズ」という名前じゃないでしょうか。

例えばザ・ベンチャーズとかザ・モンキーズなど。

これが単に複数形のSだったら

日本ではいちいち複数と単数を区別しませんから、

名詞のグループ名「ケツメイシ」とか「キンモクセイ」なんかと

同じということになりますが、「ザ・~(なになに)ズ」というと、

一つの集団とかグループを表す意味合いが強いので、

「~団」とか「~組」とか「~軍」とかいう感じになると思うんです。

となると、日本でも「憂歌団」とか「竜童組」とか「ピンクリボン軍」とか

あるにはあるんですが、

英語の「ザ・~ズ」ほどポピュラーではないような気がしますね。

「ザ・モンキーズ」を日本語で考えると「猿軍団」とか「猿組」

といった感じになると思うのですが、

果たして英語圏の人達にとって、

こういった名前はカッコよく響いているのかどうか、

実際に聞いてみたいところです。

今日はそんな名前のグループの中から代表して、

アメリカの「ザ・カーズ」の”レッツ・ゴー”(1979年)を紹介しました。

「ザ・カーズ」、日本流に言えば「自動車団」…(?)

3月26日(木)の名盤は…

今日はちょっと珍しいところで、オランダのロックを紹介しました。

オランダ、ロックと聞いて、どんなイメージがありますか?

具体的なイメージが浮かばないという方が多いかもしれません。

世界的に人気のあるアーティストは少ないものの、

優れた才能を持つ人たちがいるんですね。

特に1960年代末期から70年代にはイギリス、

アメリカで多くのヒットを放つグループがたくさんいて、

”ダッチ・ロック・ブーム”というものがあったほどなんです。

例えば有名な大ヒット曲「ヴィーナス」のショッキング・ブルー、

今やガレージ系のファンから再評価されているゴールデン・イヤリング、

以前このコーナーで「悪魔の呪文」という曲を紹介したフォーカス、

プログレッシブ・ロックの名バンド、トレイスなどなど。

オランダから世界に向けて優れた楽曲を発信していました。

その中から今日は、日本で1971年に大ヒットを記録した

アース&ファイアの「シーズン」という曲をお送りしました。

アース、ウインド&ファイアではありませんよ。

イギリスともフランスやイタリアとも、またドイツとも異なる独特の味わいが、

オランダ風のサウンドには共通しているような気がします。

3月19日(木)の名盤は…

今日は”スティクス”を紹介しました。

スティクスのもともとの中心人物は大半の曲を作り、

ボーカルも取っているデニス・デ・ヤングという人で、

デビュー以来、高い評価を得ながらも

セールス的にはなかなか成功しない状態が続きました。

ところが6作目のアルバムから変化が起こります。

彼と同様に曲が書け、歌もイケるうえに5歳も若く、

ルックスもイケメンのトミー・ショウが加入するんです。

それと同時にヒットも生まれ、この1970年代後期から80年代前半にかけて

彼らはアメリカを代表するスターへとのし上がります。

もちろん、100%トミーのおかげという訳ではありません。

彼の参加によってデニスが刺激を受け、お互い切磋琢磨した結果です。

最初のうちはまだ経験の差があった二人ですが、

だんだんと差が縮まってきて、ついには才能、

技量ともにほとんど同じレベルになってしまいました。

そうなるとデニスは面白くないでしょうし、トミーの先輩に対する

態度もちょっとどうかな、という感じで、

結局この確執が原因でバンドは空中分解してしまうんですね。

その後、1990年には、トミーが新バンドを結成したと耳にするや否や、

デニスは残りのメンバーとスティクスを再結成します。

トミーは激怒しますが、96年に和解し、彼も戻って全員で再々結成します。

丸く収まったかと思いきや、99年にデニスが体調を崩すと、

今度はトミーが彼を解雇。

するとデニスは「バンドの権利は自分にある」と訴訟を起こし、

報復合戦というか、もはや子どものけんかのようになってしまいます。

もし二人の実力にあきらかな差があったならば、

あるいはトミーが最初からメンバーだったならば、

そして年齢も同じくらいだったならば、

ここまで根が深くならなかったのでは?という気もします。

全盛期は純粋に音楽だけで火花を散らしたからこそ、

見られたのであろうバンドとしての輝きが、

再結成以降は薄れてしまっていることが残念でなりません。

3月12日(木)の名盤は…

今日は皆さんおなじみのスーパー・スター、

「ビリー・ジョエル」を紹介しました。

さすがに彼のことを”ピアノ弾き語りのバラード歌手”というだけでなく、

広い意味でのロック・アーティストであり、

名エンターテイナーと認識するファンも増えてきたようですが、

それでもリクエストの上位を占めるのは「素顔のままで」や「オネスティ」、

「ピアノマン」といった曲なんです。

人気があるのはもちろんいいことですが、

ビリー・ジョエル本人がそういうイメージを嫌っている、

とまではいかないまでも、あまり快く思っていないフシがあるようです…。

本人からすれば、幼い頃夢中になったプレスリーやレイ・チャールズ、

そしてビートルズなんかのロックン・ロールを

彼なりの解釈でやっているだけなんでしょうね。

こんなエピソードがあるんです。

音楽で食べていけるようになったビリーが、

ずっと苦労をかけっ放しだった父親を録音スタジオに招待した時のこと。

(ちなみに彼のお父さんも音楽教育を受けた方で、ビリーは子どもの時

クラシック・ピアノを習わされていたということなんですが。

そんなお父さんを招待した訳です。)

立派になった息子に感激しつつもお父さんは帰り際、

「でもビリー、私の耳にはお前のピアノは調子が外れて聴こえるんだが」と

忠告したそうです。するとビリーは

「お父さん、それがポップ・ミュージックなんだよ」とウインクしたと言います。

この言葉がまさにビリー・ジョエル自身を表していると思います。

・・・ということで、

今日はロックン・ロールピアノ・マンとしてのビリー・ジョエルを代表する曲、

という事で、ピアノを弾きつつロックン・ロールで、

なおかつ今日はベスト盤に入っていないという

1980年の曲「レイナ」を紹介しました。

3月5日(木)の名盤は…

今日は、

女性ロッカーパット・ベネターの「ハートブレイカー」を紹介しました。

今でこそ女性がロックをやるのは普通のことですが、

昔はそうではありませんでした。

「女のくせに」などと叩かれながらも負けずに戦ってきた偉大なる才能たちが

少しずつ市民権を勝ち取ってきたのです。

女性ロッカーの流れをさかのぼっていくと、

その源流は1960年代のジャニス・ジョプリンになると言われています。

ただ、彼女は最も風当たりの強い次代を生き抜いただけあって、

あまりにも個性が強烈なため、現在では直接的に影響を受けている人は

ほとんど見られません。70年代に入ると「女性ロッカーは商売になる」と

考えた人々によって、ちょっと色モノっぽい形での売り方が主流になり、

これも現在の流れとは少し違うかもしれません。

今に続く流れが完成したのは80年代初頭でしょう。

その中でもハード・ロック系女性シンガーのメインストリームを決定付けたのが、

今日の主役、パット・ベネターであることは疑う余地がありません。

グラミー賞を4年連続で受賞するなど、

メジャー・レベルで大きな影響力がありました。

歌い方はもちろんのこと、露出の大きなレオタードに黒タイツというスタイル

(パット・ベネター・ファッションとか、パット・ベネター・ルック)も含めて、

一時期はアメリカ、イギリス、さらに日本でもそっくりさんが続出。

右も左もパットもどきが溢れるほど真似られました。

でも誰も本家を超えることができません。

それはパットは10代でオペラ歌手を目指して訓練していたため、

完璧な発声を身に付けていることや、ハードロックのイメージが強いながら、

バラードも絶品で、特に出産後は母性の優しさを感じさせるスタイルへと

移行できたこと、そして50歳を過ぎた今では着ることはありませんが、

それでもレオタードが似合うほどのプロポーションを保つ

ストイックさがあるからでしょう。

女性ロッカーの礎を築き、女王として君臨するには、

ちゃんと理由・実力があるんですね。

2月26日(木)の名盤は…

今日は、

1972年の全米No.1ヒット「オー・ガール」という曲を紹介しました。

音楽に国境はない、なんて昔からよく言われますが、

これは言い換えるならば、”音楽に言葉の壁はない“ということでしょう。

確かに私たちは外国語がよく分からなくても

洋楽を聴いて感動することができます。

そういった意味ではもちろん国境なんてありません。

でもアーティスト名を日本語表記する時、

本来外国の言葉である固有名詞をカタカナで書き換えるとなると

なかなか難しい、今日はそんな例をご紹介したいと思います。

例えば”クイーンズライチ”というヘヴィメタルのバンドがいますが、

このバンド名の表記がいつの間にか”クイーンズライク”に変わってしまった

という出来事がありました。

恐らくもともとの発音に忠実に表記したらこちらの方が

近いということなのでしょうが、

ファンにとっては途中から名前が変わるなんて、ちょっと変な感じですよね。

ある雑誌社は母国語の発音に忠実な表記に徹すると宣言した上で、

一般的にはキング・クリムゾン、ロキシー・ミュージックと言われているバンド名を

キング・クリムズン、ロクシー・ミュージックと表記し続けています。

ところがすべてを発音に忠実に表記しようとするならば、音楽評論家、

DJなどとして知られるイギリス出身のピーター・バラカンさんによると、

レッド・ツェッペリンは”レッゼプリン”、

ゲイリー・ムーアは”ガーリー・モー”と言った方が近いそうなんですが、

この辺りの名前に関しては、その雑誌社でも”レッド・ツェッペリン”、

”ゲイリー・ムーア”という一般的な表記と同じ書き方をしている、

ということなんですね。

結局、外国語をカタカナに訳す時点で、100%翻訳することは不可能な訳で、

そういった意味ではカタカナで表記されている名前というのは、

日本だけで通用する日本の名前と考えたほうがいいのかもしれませんね。

で、今日ご紹介した曲は1972年の全米No.1ヒット「オー・ガール」でしたが、

この曲を歌っているグループが、まさにこの日本語で表記することの難しさに

翻弄されているグループ名の一つだと言えると思います。

ソウルの名門グループなんですが、

レコード会社が変わる度に

”シャイ・ライツ”

”チャイ・ライツ”

”チ・ライツ”

と表記が変わっているんですね。

ちなみに横文字での表記はthe Chi-Litesと書くんですが、

カタカナ表記を統一してもらわないと、

ラジオで紹介する時はちょっと困ります(笑)

2月19日(木)の名盤は…

今日は、ディック・セント・ニクラウスの「マジック」を紹介しました。

昔はいろいろな情報が少なく、特に海外事情を知る方法なんて

本当に限られていたので、例えばスポーツの世界などでは、

“まだ見ぬ強豪”というものが存在して、

ファンの想像を膨らませたものです。

実際に見てみると“とんだ一杯食わせもの”だったりすることも多いのですが、

それでも数少ない前情報をもとに「どんなすごいヤツが来るんだろう」と

ワクワクしたりしたものです。

音楽でもちょっと前までは日本盤の発売がアメリカ、イギリスより

半年から1年ぐらい遅れることが当たり前でしたし、

向こうでそこそこ話題になったものでも

日本での発売が見送られることも多かったので、

“知る人ぞ知る伝説のミュージシャン”だとか

“幻の名盤”なんてのがマニアの間で注目の的になることとなったのです。

さらに、そんな情報の乏しさを逆手に取ることもありました。

例えば海外ではまったくヒットしていないのに“話題の新人”として紹介され、

日本でだけヒットしたという曲がたくさんあります。

けれども、インターネットで地球の裏側のマイナーな曲まで

リアルタイムで聴くことができる現在よりも、ファンタジーがあって、

のどかな時代だったような気がします。

さて今日ご紹介するディック・セント・ニクラウスの「マジック」なんですが、

大阪で人気が出そうだ、と直感した担当者が、

関西限定という形でリリース。

大阪のラジオ局やレコード店が総出で仕掛けて見事にヒットしました。

すぐに全国発売され、全国区でもヒットとなりました。

ちなみに彼の本国では不発に終わり、

2ndアルバムはアメリカでは発売拒否され、

日本だけでしか売られませんでした。

アメリカでは1979年、日本では1980年の出来事ですから、

乏しい情報から夢や空想を膨らませてヒットが生まれることもある、

そんなことが通用した時代も終わろうとする頃の、

日本独自のヒットと言えると思います。

2月19日の名盤は…

今日は、アメリカで根強い人気を誇る女性シンガー・ソング・ライター、

ジル・ソビュールを紹介しました。

楽器を何でもこなすマルチ・プレイヤーなのですが、

何と言っても曲作りが素晴らしいんです。

ポップなメロディが上手いのはもちろん、歌詞の物語性が最高なんです。

しかも毒もユーモアもあるんですよ。

例えば、「あの人は仕事人間で、きっとつまらない人生を

送っているに違いないとみんなでウワサしていた会社のお局さまが、

実は夜になるとバイクを乗り回して人生を楽しんでいるのを知って、

つまらない人生は私の方だった、と気づかされる」歌や、

「学校時代のすごく美人だったんだけど、嫌味な同級生が、

芸能界に入ったまでは知っていたけど、

たまたま目にしたエッチなビデオのパッケージに写っていて、

今はなんだかあの頃のことも許せる気がする」という歌などなど。

着眼点から展開のさせ方、そしてオチのつけ方まで、実に絶品なんです。

そんな彼女の、この季節にぴったりの曲、「バレンタイン・キッス」を

今日はお送りしたいと思いますが、

実はこの日本語のタイトルは日本で勝手に付けたもので、

歌詞の内容はバレンタインとは無関係なんです。

もともとのタイトルは「I kissed a girl」。どんな内容かと言いますと、

仲の良い女友達二人がお互いの彼の愚痴を言いながら

酒を飲んでいるうちに、そのままキッスして夜を共にしちゃったという、

ちょいとアブナイお話なんです。

ちなみに彼女自身はレズビアンではないそうなんですが、

1995年に発表されたこの曲は、全米に衝撃を与え、

とにかく彼女を一躍有名にした代表曲です。

「バレンタイン・キッス」という日本で付けられたタイトルだと、

ただのラヴソングなのかなと想像してしまいがちですよね。

でもそう思われてしまっては、彼女の歌の本当の魅力は伝わりません。

彼女が日本でマイナーなのは、

この辺り(日本語のタイトルの付け方のセンスというか・・・)にも

原因があるんじゃないでしょうかね。

2月5日(水)の名盤は…

昨日2月4日は、カレン・カーペンターの命日でした。

そこで、今日はカーペンターズを取り上げました。

カレンが亡くなったのは1983年のことですから、もう26年も経つんですね。

カーペンターズがヒット・チャートを賑わわせていた

1970年代は完全にロックの時代であって、

彼らのようなソフト・タッチの王道的ポップスは逆に異端児でした。

一歩間違えば時代遅れにもなりかねないこのスタイルを、

そうはさせなかったのが、兄であるリチャードの練りに練り上げた

アレンジ能力の天才ぶりと、

なんといってもカレンの唯一無二の歌声の素晴らしさでした。

女性歌手として当時も今も珍しい低音ボーカルで、

しかもほとんどシャウトせず、こぶしも回さず、

ヴィブラートも使わず、つまりロック系の歌手に見られる

黒人音楽からの要素が皆無なナチュラルで無色透明な歌声。

だからこそ聴き手のシチュエーションによって明るく楽しくも、

悲しく切なくも聴こえる魔法があるのでしょう。

それともうひとつ重要な点があります。

まるで歯磨きのCMのように常に真っ白い歯を見せて、

幸せそうな笑顔を咲かせ、陽気なアメリカの健全で理想的な兄妹の

イメージだった彼らが、しかしその裏で兄は薬物中毒、

妹は過食と拒食を繰り返し、死に至ってしまったという現実。

表向きは自由な大国、しかし内情は多くの問題を抱える

アメリカのまさに縮図のようですが、

それ以上に優れたポップ・ミュージックの宿命なのです。

後世に残るポップスの名曲は、ほぼ例外なく、魂の暗闇というか、

病める心によって生み出されていると言ってもいいかもしれません。

そんなある種の“毒”が楽しいポップスの裏に透けて見える

瞬間があるからこそ、名曲は人の心を打つんじゃないでしょうか。

そんなことを改めて思い出させてくれる、

美しくも悲しいポップスがカーペンターズなのです。

1月29日(木)の名盤は…

今日は、

ボビー・ウーマックの「アメリカン・ドリーム」という曲を紹介しました。

先週のオバマ・アメリカ新大統領の就任式はまだ記憶に新しいところですが、

このオバマ氏が立候補したあたりから、主義主張の影響もさることながら、

“演説”の上手さという点でよく引き合いに出されるのが、

故マーティン・ルーサー・キング牧師です。この二人の演説の共通点として、

まず誰にでもわかりやすい単語や言い回し、

それから短いセンテンス、印象的なフレーズ、さらに間の取り方の上手さ、

そして声質の良さなどが挙げられると思います。

しかしオバマ大統領も唯一キング牧師に遠く及ばないところがあります。

それは、“歌唱力”です。

キング牧師の有名な「I have a dream」という1963年の演説を

一度でも聴いたことのある人は共感していただけるんじゃんないでしょうか。

キング牧師のスピーチは歌と言っても過言ではないと思います。

これは黒人社会の伝統ともいえるのですが、

「ブルース・ブラザーズ」という映画の中で、ジェイムス・ブラウン演ずる

牧師が説教をしながら歌になだれ込むシーンがあるんですけれども、

黒人教会ではそういうゴスペルの“コール&レスポンス“をルーツとする、

歌と混然一体となった説教が普通に行われているそうなんです。

この表現力がキング牧師は抜群なんです。

「I have a dream」については授業でも習いますし、

ステイーヴィー・ワンダーがキング牧師を讃えた名曲「Happy Birthday」の

シングルのB面でレコード化されました。

その演説をそのままこのコーナーで紹介してもいいくらいですが、

今日はその演説を歌に上手に導入した

ボビー・ウーマックの曲をお聴きください。

類まれな名歌手、ボビー・ウーマックに勝るとも劣らない、

キング牧師の“ソウル・シンガー”ぶりがお分かりいただけると思います。

1月22日の名盤は…

今日は、去年9年ぶりにアルバムをリリースし、カムバックを果たした

ドナ・サマーを紹介しました。

実はその新作からカットされたシングル2曲が、

一般的に大ヒットした訳ではありませんが、

ビルボードのダンス・チャートで1位を獲得。

その結果、現時点で1970年代、80年代、90年代、2000年代の

すべての時代のダンス・チャートNo.1を記録した

唯一のアーティストという名誉を勝ち取っています。

しかし、なんといっても彼女が一番輝いていたのは1970年代でしょう。

ボストン生まれのアメリカ人なのですが、有名になる前にドイツへ渡り、

ミュージカル女優やシンガーとして8年も活動しています。

当然ドイツ語もペラペラのバイリンガルです。

そのドイツで70年代半ばに名プロデューサー、

ジョルジオ・モロダーと出会い、彼の生み出した当時最先端の

エレクトロ・ディスコ・ビートをバックにして“ディスコ・クイーン”として

逆輸入の形でアメリカに進出。ドイツ、アメリカのみならず、

イギリスや日本でも大人気となり、一世を風靡しました。

ポイントは3つ。まずはなんといってもモロダーの作るサウンドが

時代にぴったりとはまったこと。

彼女の歌は本格的にディープなソウルを歌うには弱かったかもしれませんが、

モロダーの音との絡みは完璧ですし、他のディスコ歌手と比べると

圧倒的にソウルフルで、歌唱力も最上級でした。

そして最後にルックスが良かったことは見逃せません。

彼女はホイットニー・ヒューストンが登場する前までは、

最も美しいソウル歌手と呼ばれていました。

さらに下積みが長かったためか、サービス精神が高く、

セクシーな衣装を大胆に着こなしていたのも魅力的でした。

今日は彼女の代表曲と呼ばれることは少ないかもしれませんが、

1980年のこの曲「ザ・ワンダラー」とともに紹介しました。

1月15日の名盤は…

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々を紹介する「名盤iNaDAY」。

今日はキザイア・ジョーンズを紹介しました。

まず初めにロッド・スチュワートのある発言をご紹介したいと思うんですが、

「階級制度の残るイギリスで労働者階級の人間が成り上がるには、

サッカー選手かミュージシャンになるしかないんだ」と、

こんなことを言っているんですね。

そのハングリー精神が音楽に迫力を与え、リスナーの魂を打つ、というのは

確かに一つの真実なんでしょうけど、「もう後がない」という意味では、

言葉は悪いですが、“成り上がり”ならぬ、その逆の”成り下がり“の人生も

まったく同じかもしれません。

今日紹介したキザイア・ジョーンズはそんなミュージシャンです。

彼はナイジェリア人なんですが、なんと大きな部族の酋長の息子なんです。

ナイジェリアは近代国家で、彼の父親は事業に成功した

指折りの資産家でもあります。

日本で言うと、財閥の跡取りという感じです。

英才教育すべく、8歳からイギリスへ単身で留学に送り込まれた

キザイア少年でしたが、そこで音楽に目覚め、ドロップアウトしてしまいます。

アフリカでは家が厳しくて音楽を聴いたことも楽器を

触ったこともなかったとのことながら、

ピアノもギターもすぐに弾けたと言いますから、天才だったのでしょう。

クラブ回りやストリート・ライヴを続けながら、

国へ連れ戻そうとする一族の追っ手から逃げ続ける生活のすえ、

1992年にデビューを果たしました。

部族の固い絆を裏切る形になった訳ですから、

死にものぐるいだったのは間違いありません。

その後、彼が家族と和解できたのかどうかは分かりません。

一族からすれば地位も名誉も金もある生活を捨てた彼を

愚かだと思っているかもしれません。

けれども彼は今も音楽活動を続けています。

世界的な大ヒットこそありませんが、音楽性は高く評価されています。

富と名声は手放したかもしれませんが、

ギター1本で世界を旅する自由を勝ち取りましたし、

家族は失ったかもしれませんが、旅先には家族同然の

温かいファンが待っている、

そんな生活を手に入れることができたのではないでしょうか。

いや、ミュージシャンとして活動を続け、今後、父親の財産を超える富と

名声を手に入れる可能性だってまだまだ残されています。

12月25日(木)の名盤は…

今年も多くの新人が登場して音楽シーンを彩ってくれましたね。

ダフィーという女性アーティストの楽曲「マーシー」も大ヒットしました。

そのダフィーは音楽的な今後の成長も期待させる、

チャーミングな女性なんですが、彼女の歌声や姿を見聞きする前に、

文字の情報だけで各国のヒット・チャートをチェックした人の中には、

「なんで、あのダフィーがこんなにチャートの上位にいるの?」と驚いた方も

いたかもしれません。

というのも、まったく同じスペルのダフィーという

イギリス人男性アーティストが、1980年代から活動しているからです。

今日はこの男性のダフィーを紹介しました。

本名はスティーヴン・ダフィ、ライラック・タイムというバンドで、

またソロ名義のダフィとして、ヒット・チャートでは

あまり知られることはないのですが、

良質でポップなロックンロールで根強い人気を持つミュージシャンなんです。

日本にも彼のファンだという人は少なくありません。

ここで不思議なのは、例えば日本のバンド、Xが海外進出する時、

アメリカに同じ名前のバンドがいるということからX JAPANと改名したように、

またはイギリスのシャーラタンズというバンドが、

アメリカではシャーラタンズUKという名義でなければCDを出せないように、

例えば彼女はウェールズの出身ですから「ウェールズ・ダフィ」とか

改名しなくても良かったのかという疑問が残ります。

これについては実際のところはわかりませんけれども、

結局、先に活動していたイギリス人男性のダフィの方が

クレームを付けなかったということなんでしょうね。

彼の「シュガーハイ」という曲の歌詞なんかを見ても、

「俺はあんまり売れてないし、なんなら俺のほうが

本名のスティーヴン・ダフィに戻そうか?」とでも言ったかもしれない、

そう思わせる程ナイスガイっぽい好感度の高いミュージシャンです。

ちなみに、今日紹介した曲は、ごく簡単に要約すると、

「少年時代の青臭くバカげたことを信じ続ければ空だって飛べる。

愛と音楽を手にすれば生き残っていける」というような感じの、

ロックンロールを讃えた名曲です。

12月18日(木)の名盤は…

今日はスレイドの「メリー・クリスマス・エヴリバディ」を紹介しました。

街中のあちこちからクリスマス・ソングが聴こえてきますが、

毎年新しい曲が生まれるクリスマス・ソング、

消え行く曲も当然あるんです。

そんな生存競争に勝ち残った曲が

スタンダードと呼ばれているんだと思いますが、

それでは、そういった毎年よく耳にするクリスマスの定番ソングの数々が、

実際にヒット・チャートを上昇するのかといえば、

意外とそうではありません。

どれだけ街中で流れようが、

クリスマス・コンピレーション・アルバムが売れようが、

システム的にはシングルとして売り上げを伸ばさなければ、

チャートを昇ることはできないからです。

その意味で、1983年に初めてリリースされて以来、

26年間で9回シングル・カットされ、6年目でオリコン1位、

17年で200万枚を突破した山下達郎の「クリスマス・イヴ」は、

本当にすごいですよね。

ところが、なんとイギリスにはこれをさらに上回る曲があるんです。

グラム・ロック系のハード・ポップ・バンド、スレイドの

「メリー・クリスマス・エヴリバディ」という曲がそうなんです。

バンド自体は70年代に多くのヒットを放ったものの、

超B級といった感じですが、この曲はまさにイギリスの

「国民的クリスマス・ソング」なんです。

1973年に発売されて1位を記録。山下達郎と違って、

最初から大ヒットしたのがポイントです。

その後も毎年12月になると全英チャートを上昇。

正確なデータは不明ですが、恐らくは1年も漏れることなく

36年連続でチャート・インしているものと思われます。

当然、今年も先週付けで49位。50位以内ってすごくないですか!?

35年前の曲ですよ。

付け加えると、35年間、常にシングル盤の形で曲を買うことができる

イギリスのレコード業界もすごいと言えるかもしれませんね。

12月11日(木)の名盤は…

今日は「ラスト・クリスマス」を紹介しました。

・・・とは言っても、オリジナルのワム!は夏に一度取り上げましたので、

今日はビートマスというバンドのカバー・バージョンを選んでみました。

このビートマス、デンマークの4人組で、別名というか、

本来のバンド名はラバー・バンドというビートルズのコピー・バンドなのです。

まぁ、こうしてCDも出ているくらいなので、プロと言えばプロなのでしょうが、

コピーだけで食べていけるのかどうか疑問ですよねー。

ところが毎年この時期になると引っ張りだこで大忙しらしいんです。

なぜかというと、この時期だけ期間限定で、ザ・ビートマスと名乗り、

有名なクリスマス・ソングをビートルズ風にアレンジして

演奏する芸が大人気だから、なんですね。

で、こうやってCDが、遠く離れた日本でまで発売されちゃっているわけです。

これがまぁ、楽しい。さっき、「ビートルズ風のアレンジ」と言いましたけど、

基本的にはビートルズの曲に合わせて、

クリスマス・ソングを強引に歌ったというだけなんです。

ある意味、ただの替え歌と言えます。アイデア一発勝負です。

でも実際聴いてみると、「なんでこれがああなるの?!」とびっくりさせられます。

そしてファンならずとも思わず笑顔になってしまいます。

そしてもう一度じっくり聴くと、演奏から歌いまわし、

コーラスの付け方など、ビートルズのクセを

完璧にコピーしていることがわかります。

ビートルズに対する強い愛情に溢れているんですね。

だからこそ、パロディたり得るんだと思います。

この「ラスト・クリスマス」は元ネタが「プリーズ・Mr.ポストマン」。

これは元々モータウンのカバーということで、モータウン、ビートルズ、

ワム!と、一体誰のカバーを聴いているのか、分からなくなります。

とにかく楽しい。

ぜひアルバムを聴いてもらいたいバンドです。

12月4日(木)の名盤は…

今日はケイト・ブッシュを紹介しました。

彼女は、ジャンル分けすることが難しく、

世代的にはニューウェイブ世代なので、

確かにニューウェイブ風味も感じられるけれど、

そう言い切ってしまうにはちょっと違う…。

では、「女性ボーカル」、「シンガーソングライター」という括りにすると、

それからイメージする音ともまったく異質です。

彼女が作る楽曲の音楽性としては「クラシック」や「トラッド」の

香りも強いんですが、もっと新しい何かがある、

ということで強いて言えば「現代音楽」というのが一番近い気もします。

でも間違いなく「ロック」だし、だからといって「イギリスのロック」に

分類すると違和感がある、といった具合にどのジャンルに入れても

収まりが悪いというか、はみ出てしまう。

彼女の後に続く人もいないので、他に似たような人がいないという

まさに唯一無二の孤高の存在。

それがケイト・ブッシュです。

彼女自身が「ケイト・ブッシュ」というジャンルを確立している、

強烈な個性の持ち主なんですね。

11月27日(木)の名盤は…

1986年の大ヒット、ロビー・ネヴィルの「セ・ラ・ヴィ」を紹介しました。

この曲は80年代を代表する傑作と言ってもいいぐらい、

クオリティの高い作品だと思うのですが、

実はロビー・ネヴィルという人自体は謎が多い人だったんですね。

まず出身地。デビュー・アルバムの解説ではまったく触れてなかったのですが、

2ndアルバムの解説には、「ロサンゼルス生まれ」と書いてありました。

ところが当時の文献によってはイギリス出身と

なっているものもあるんですね。

そしてデビュー作の契約はアメリカのレーベルだけど、

録音はイギリスで行っていて、

プロデュースも当時イギリスで売れっ子だったアレックス・サドキンという

プロデューサーが手掛けているという、

ちょっと複雑な感じになっています。

実はこれはデビューの時の戦略として、わざと国籍不明にしたらしいんです。

本当は完全なアメリカ人でした。

そんなロビー・ネヴィルですが、契約からデビューまで2年間の空白があって、

その間に黒人ソウル歌手達にたくさんの楽曲を提供しています。

デビュー当時の戦略によって、彼をイギリス人だと信じていた音楽ファンは、

「イギリス人で白人の彼が、アメリカの黒人のソウル歌手に

楽曲提供するなんて、すごい!」と思った方も

少なくなかったようなんですが、実際は彼はアメリカ人だったんです。

さらに空白の2年間、これも「自分をプロデュースできるのは、

アレックス・サドキンだけだ」と、

売れっ子プロデューサーだったアレックスのスケジュールが空くまで、

他のオファーを断って待ち続けた、という逸話もあるのですが、一方で、

もともとサドキンに見出されたものの、

まだ早いということで修業させられていたという説もありまして、

どうもこちらの方が本当ではないかという見方もあります。

結局、このデビュー曲「セ・ラ・ヴィ」のヒットを超えることが出来ず、

いわゆる一発屋として名前を残す形になってしまいました。

でも彼の名誉の為に付け加えておきますと、2ndシングルも3rdシングルも

そこそこヒットしているので、厳密に言えば「一発屋」ではないんですよ。

現在は完全に裏方としてではありますが、

作曲、プロデューサー業で音楽業界で地道にがんばっているようです。

11月20日(木)の名盤は…

今週は1981年に大ヒットした「ハート悲しく」を紹介しました。

この曲、当時大流行していたAOR、いわゆる大人のための

オシャレなロックの流れを汲む、

甘く切なく情緒的なラヴ・ソングの名曲ですが、

これが初ヒットとなるこの歌手の名前を聞いて、

ほとんどの人は「ああ、また似たようなAOR歌手が出てきたな」

ぐらいに思っていました。

ところが、長年のロック・ファンはその名を耳にして、

「マーティ・バリンって、あのマーティ・バリン?」ととても驚いたのです。

そう、この人はサンフランシスコが生んだ偉大なロック・バンド、

ジェファソン・エアプレインのリーダーとして1960年代から大活躍する

マーティ・バリンだったのです。

久しぶりに名前を聞いて、懐かしくて驚いたわけではありません。

政治的で反社会的な主張をもった、

過激で硬派なロック・バンドだったジェファソンから、

180度方向転換したかのような、ある意味軟弱なアダルト・ポップを歌う姿に、

悲しみに近い落胆を感じたのでした。

まぁ、この時代は本当に「猫も杓子もAOR」という感じで、

ハード・ロックから転向した人も何人もいたぐらいですから、

責められる筋合いはないのですが。

しかもジェファソンは「反戦」、「愛と平和」を唱えていたわけで、

60年代は声高に主張していたことを、

80年代は心の琴線に直接触れる形で愛を説いている、と考えれば、

表現手法が変わっただけで、

メッセージ自体は一貫していると言えるかも知れません。

しかし、それにしても、この曲が入っているアルバム全体では、

ハードな曲や、もっと乾いた感じのオシャレな曲もあるのに…

しかし、全米でも8位という大ヒットを記録しています。

まさにAORの時代だったのでしょうね。

11月13日の名盤は…

今日は「ゴールデン・カップス」を紹介しました。

今週の月曜日、悲しいニュースが飛び込んできました。

ゴールデン・カップスのリーダーで、

ボーカリストのデイヴ平尾さんが病気の為、亡くなりました。

去年亡くなられた鈴木ヒロミツさんに続いて、

追悼という形でしかご紹介できないのが残念ですが、

本来は、もっと早く取り上げるべき、

日本音楽界に輝く巨匠だったと言っても過言ではない、

そんな方だったんですね。

ゴールデン・カップスこそが、現在まで脈々と続く日本のロック音楽の源流、

創始者であったと言えるでしょう。

もちろん、それ以前にもロカビリーやウエスタンの人達は

いたわけですが、ビートルズ以降のいわゆるロック・バンドを

日本に取り入れた最初がグループ・サウンズ、いわゆるGSです。

ですが、当時は日本全体がまだロックを分かっていませんでしたし、

そもそも活動の場がなかったので、

歌謡曲のフィールドに押し込められていました。

タイガース、スパイダース、ワイルド・ワンズなどなど。

すべて出発点はビートルズのようなロックンロールだったのに、

デビューすると、職業作曲家の手による歌謡曲チックな楽曲を

あてがわれてしまったんですね。

カップスも例にもれず、

ヒット曲の「長い髪の少女」、「いとしのジザベル」などはすべてそうです。

しかし、当時、本物の不良だった彼らが

それで満足するはずはありません。アルバムでは洋楽ばかりで、

ライブでもヒット曲はほとんどやらずにやはり洋楽ばかり。

独自の解釈と卓越した演奏力による洋楽カバー。

これこそが日本のロックの第一歩だったのです。

他のGSが後にみんな芸能界に転向したのに対し、

カップスのメンバーは全員音楽に残り、進化していきました。

日本のロックの一番最初にゴールデン・カップスがいたんですね。

11月6日(木)の名盤は…

今週は1980年代に多くのヒット曲を生み出し、

現在も地道に活動を続けるイギリスの女性シンガー、

「キム・ワイルド」を紹介しました。

1960年、ロンドンに生まれた彼女は、

父親が1950年~60年代にかけてヒット曲を量産し、

“イギリスのロックン・ロール生みの親のひとり”と言われる、

マーティ・ワイルド。

母親も同じ時期に人気のあったガールズ・グループのメンバーという、

二世アーティストです。

弟のリッキーと共に父親のステージにバック・ボーカルとして

参加しているところを大物プロデューサー、ミッキー・モストに見出され、

1981年にデビューします。

契約したRAKレーベルと言えば、社長のモストを中心に

プロダクション・スタッフがガチガチに固まっていて、

どのアーティストもみんな同じ音にしてしまうほど協力な

レーベル・カラーを持っていることで有名ですが、

彼女の場合はお父さんの力が大きかったのか、

会社側のスタッフを一切いれず、

父親と弟がプロデュースと楽曲提供、母親がマネージャーと、

すべてを家族で固める特例が許されたようです。

デビュー曲の「キッズ・イン・アメリカ」は、

当時全盛だったニュー・ウェイヴの手法を生かしたロックン・ロールで、

全英2位の大ヒット。

実際には若い姉弟がナメられないように、父親は名前を貸しただけで、

ほとんどすべての作曲、編曲、制作を担当した弟リッキー君こそが

本当の天才と言ってもいいんじゃないでしょうか。

ちなみにこの時、お姉さんのキムが20歳だったので、

弟のリッキー君は10代です!

ともあれ、これまでの長いキャリアの中で、

人気が下がってくるとスタイルを変えて、一発逆転のヒット曲を放ち、

ミュージック・シーンに残っているキム・ワイルドですが、

お父さん、お母さん、弟との絆は一貫して変わっていません。

キム・ワイルドというアーティスト名は、キム・ワイルド個人のものではなく、

ワイルド一家のグループ名と考えてもいいのかもしれませんね。

今日は、1981年のデビュー曲「キッズ・イン・アメリカ」をお届けしました。

10月30日(木)の名盤は…

今日はデレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」を紹介しました。

・・・と言っても、今日紹介したのは一人のギタリストの話です。

10月29日はデュアン・オールマンという偉大なギタリストの命日でした。

ロックを熱心に聴いている人はご存知だと思いますが、

一般的にはなかなか名前だけ聞いても、知らない人が多いかもしれません。

2003年にローリング・ストーン誌が発表した

「歴史上最も偉大なるギタリスト100」というものがあります。

それで首位のジミ・ヘンドリクスに次いで2位に選ばれたのが、

このデュアン・オールマンなんです。

このランキングにおいては、UKロックの3大ギタリストと言われる、

エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジよりも

上とされていたんですね。

クラプトンの名前を出しましたが、このデュアン・オールマンの

一般的に最も有名なプレイは、実はクラプトンのあの有名な曲

「いとしのレイラ」なんです。

クラプトンの、と言いましたが…正確にはクラプトンもメンバーの一員だった

4人組のバンド、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」です。

でも、デュアンはこのバンドのメンバーでもないんです。

彼は数百曲のセッションに参加したスタジオ・ミュージシャンであり、

この当時はまだデビューしたばかりの

オールマン・ブラザーズ・バンドの一員でした。

そんな彼が「いとしのレイラ」のレコーディングに呼ばれたのです。

自分とほぼ同世代の天才との遭遇にクラプトンは燃えました。

いつも以上に気合のこもった最高のギターを弾いてみせたのです。

しかし、当時すでに“神様”と呼ばれていたクラプトンのベスト・プレイを

はるかに上回るギターを聴かせたのがデュアンでした。

おそらくリスナーの皆さんの多くが

“やっぱりクラプトンのギターはすごいなー”と

思っていらっしゃる部分はデュアンのプレイなんです。

中間のソロで天高くどこまでも昇っていくような

スライド・ギターもデュアンのものです。

クラプトンがこの後、ギターよりも作曲や歌うことに重きを置くようになったのは、

ここでの敗北が大きかったと言われています。

しかし、この録音からおよそ1年後の1971年10月29日、

デュアンはバイク事故で帰らぬ人となりました。24歳の若さでした。

今も生きていたら、どんな活躍をしていたのでしょう。

10月23日(木)の名盤は…

今週も先週に引き続き、”究極の語りソング“をお送りしました。

ウーマン・トゥ・ウーマン  /  シャーリー・ブラウン

やはりブラック・ミュージックで、1974年にR&Bチャートで1位を獲得した

大ヒット曲、シャーリー・ブラウンの「ウーマン・トゥ・ウーマン」です。

この曲が、なぜ究極かというと、イントロの語りが単なる状況説明的な、

いわゆるナレーションではなく、

演劇的なセリフになっているのが画期的に新しかったのです。

でも、まぁ、それだけならば他の曲でもあったかもしれません。

この曲のすごいところは、聴けば最初の1行でわかるんですが、

この歌の主人公は電話をかけているんですね。

この曲は本編の歌の部分も全部、電話で話している内容になっていて、

それの導入として、「もしもし」から始まるセリフから始まり、

そのままスムーズに歌につながる、というよりも、

いつの間にかセリフが歌にすり替わっていくという構成が絶品な訳です。

さらに最重要ポイントは電話の相手。

誰としゃべっているのかと言うと、

タイトルに出ているように「ウーマン・トゥ・ウーマン」。

女性から女性へ。“語り”の部分はこんなセリフになっています。

「もしもし、バーバラさん?私はシャーリー。誰だかわからないと思うけど、

私にはあなたに電話する理由があるの。

今朝、主人のポケットから、あなたの名前と電話番号のメモを見つけたの。

女同士、ちょっと話さない?」という内容。

そうなんです、夫の愛人に奥さんが電話をかけているという設定なんです。

この驚きの人間関係の設定と、電話を使った小道具、

そして歌にすり替わる構成が、二重三重に絡み合って、

究極の語りモノに仕上がっていると言えるでしょう。

10月16日(木)の名盤は…

今日は、「マンハッタンズ」を紹介しました。

最近はあんまり聴かれなくなりましたが、1970年代頃までは、

“語り”から始まる歌というのが結構ありました。

そんな“語り”から始まる歌が伝統的に多いのは、

なんといってもブラック・ミュージックではないでしょうか。

その中にはジェイムズ・ブラウンのようにファンキーで

アップ・テンポのジャンプ・ナンバーまでも

語りから始めてしまう例もありますが、一般的にはやはりスローなバラッド。

特に1960年から70年代のソウル・バラッドは、

語りから始まる名曲の宝庫と言っても過言ではありません。

本当にたくさんの素晴らしい曲があるのですが、

今日ご紹介するのは、その中でも名曲中の名曲と名高い、

マンハッタンズの「涙の口づけ」です。

このマンハッタンズ、日本でもとても人気の高いグループで、

1980年の大ヒット「夢のシャイニング・スター」は、

今なおFMKでもよく流れるので耳にしたことがある人も多いと思います。

彼らの本国アメリカでの最大のヒットが、

1976年、R&Bチャート、ポップチャートともにNo.1を獲得した、

この「涙の口づけ」です。

長い間、不倫関係にあった男女が、それを終わらせるべく、

最後のデートにのぞみ、

「キスしよう。それで、さよならだ。」というラブソングです。

それを冒頭の“語り”が静かに、ゆっくりと盛り上げてくれます。

リード歌手、ジェラルド・アルストンの情感たっぷりの歌いまわし、

絶妙なコーラス・ワーク、楽曲の良さ、そして語りを加えて、

三位一体ならぬ、四位一体と呼びたい名曲ですね。

10月9日(木)の名盤は…

今日は「マッドネス」を紹介しました。

マッドネスという名前は知らなくても、日本では35歳以上の方なら、

車のCMでムカデ・ダンスを披露していた7人組…、

懐かしく思い出されると思います。あのグループです。

1970年代末のイギリス、パンク・ブームに触発されるようにして、

スカのリヴァイヴァル運動が起こります。

スカというのはレゲエの原型ともいえるジャマイカのダンス・ミュージックで、

「ンカ・ンカ・ンカ・ンカ」というリズムが特徴です。

スペシャルズ、マッドネス、セレクターといったバンドが同時期に登場し、

同じ2トーンというレーベルだったこと、

白黒2トーン・カラーの衣装を身に着けていたことから、

2トーン・ムーヴメントと名づけられ、パンクを経由したスピード感溢れる

新しいスカがイギリス中で大人気となりました。

ところがこのムーヴメントは冷めるのも早く、

特に基本的に同じリズムのスカはすぐに飽きられ、

1982年頃には多くのバンドが消え、リーダー格だったスペシャルズさえ

解散してしまいました。

でも、マッドネスだけが生き残ったのです。

彼らには例のCMのムカデ・ダンスのようなユーモラスなキャラクターが

強烈だったことと、イギリスの人々の生活を風刺と皮肉をまじえながらも

ジョークたっぷりにあたたかい眼差しで描く歌詞の

素晴らしい才能があったからです。

こういう歌を書くバンドをイギリスの人達は愛します。

そして1982年末に発表した4作目のアルバム「ライズ&フォール」では

スカを捨て、いかにもイギリスらしい、

伝統的なブリティッシュ・ポップスといえるサウンドを展開。

より歌詞の内容と合った音楽性で、

イギリスの国民的人気バンドと呼ばれるほどになり、

1986年の解散まで高い人気を誇り続けました。

その後、何度か再結成するたびに大声援で迎えられています。

イギリスの庶民にとってはヒーローというより、

永遠の隣のアンちゃんなのです。

10月2日の名盤は…

今日は、日本のガールズ・ロック・バンドの草分けとも言われる

「ZELDA」を」紹介しました。

1979年、後にボ・ガンボスのどんとと結婚した小嶋さちほを中心に結成。

翌1980年に当時まだ中学生だった高橋佐代子がボーカルとして加入し、

バンドの二枚看板が揃います。

インディーで数枚のレコードを発表。ライブで実力と人気を高め、

1982年にメジャーデビューを果たします。

ボーカルのサヨコ、ベースのさちほの他、

ギタリストとドラマーは何人か入れ代わりがあったものの、

全員女性の4人組という形を崩すことなく、1996年の解散まで貫かれました。

この17年というのは全員女性バンドとしての最長活動記録として

ギネス・ブックにも載っているそうです。

ヒット・チャートに顔を出すほど売れたこともなく、

一般的には知名度も高くないZELDAですが、

バンドをやっている女の子にとっては、

必須科目とも言える存在だったのではないでしょうか?

また、ZELDAは成長・進化し続けたバンドです。

パンクから始まり、サヨコの文学性を前面に出した

ニュー・ウェイブ・サウンドの初期。

80年代後半はブラック・ミュージックに目覚め、

16ビートのファンキーなビートに傾倒。

90年代に入るとレゲエを大胆に採り入れ、

その流れで沖縄や各地のエスニックな音楽へも接近と、

長い活動の中で、同じような作風のアルバムが1枚もないのです。

そして1996年、彼女たちの最後のシングルがこれ。

胡弓とパーカッションを導入した、無国籍風サウンドながら、

全体的には「日本のうた」としか言いようのない音楽です。

今日お届けしたのは、ZELDAで「金木犀」でした。

9月25日(木)の名盤は…

今日は、「ジョージ・ベンソン」を紹介しました。

いつもなら、その日に取り上げるアーティストを、

「いつ頃、何のジャンルでヒットしたどんなアーティスト・・・」

などといった、何らかの肩書きをご紹介できるのですが、

一言で説明が出来ないのが、このジョージ・ベンソンです。

まず、1960年代初期にジャズ・ギタリストとして活動を始めます。

それは硬派なジャズであり、あのマイルス・デイヴィスにも認められるほどで、

60年代の後期からは、イージーリスニング・ジャズと呼ばれた、

後のフュージョンや、スムースジャズの先駆者にもなり、人気となります。

そして、70年代にはAORの名盤とも言われる、アルバム「ブリージン」で、

大物プロデューサー、トミー・リピューマと手を組み、ヒットを修めました。

そして、次に彼は自分の歌声を聴かせたことがターニングポイントとなり、

歌手としての活動がメインとなって行きます。

80年代はクインシー・ジョーンズ・ファミリーと組んで、ジャンルで言えば

ブラックコンテンポラリーやR&Bでのヒットを連発します。

また、平行してデヴィッド・フォスター一派との共演で、

AORやポップスでもヒットを連発。

はたまた、90年代以降は、本格ジャズギタリストとしての作品と

歌モノを交互に発表し、二刀流として現在でも第一線で活動する、

マルチな才能を持った天才です。

長い活動の中で、硬派なジャズ、スムースジャズ、AOR、

ブラックコンテンポラリー、R&Bと、4つのフィールド全てで、

成功を修めているのは、本当に凄いことです。

今日は、1981年のヒットで、デヴィッド・フォスター一派時代のもので、

「ターン・ユア・ラブ」をお送りしましたが、実はこの曲、

後にEAST EXD×YUKIの大ヒット、「DA・YO・NE」の元ネタにも

なった曲なんです。

これで、Hip-Hopの成功も加わった!?のでしょうか・・・。

9月18日(木)の名盤は…

今日はアメリカのロックバンド、

「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」を紹介しました。

日本の洋楽のヒット曲というのは、

昔からアメリカのチャートが大きく影響しています。

また、ビートルズのヒット以降は、

イギリスのチャートの影響も大きいと言えるでしょう。

それゆえにアメリカやイギリスでも、人気のあるアーティストは

日本でも、スーパースターです。

しかし時たま、両国でもあまり注目されてないアーティストが

日本独自でヒットするのと同様に、

両国ではスーパースターではあるものの、

日本では、あまり注目されないアーティストが居ます。

そこで、今日紹介したのが、

「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」です。

アメリカでは、チャートNo.1ヒット曲があったり、

アルバムがミリオンセラーを記録したりと、スーパースターなのですが、

日本でのセールスと知名度は、あまり高いとは言えません。

イーグルスの、グレン・フライなどは、

「自分に最も大きな影響を与えてくれた人」とまで

言っているのに、不思議なものですよね。

今日は、そんな「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」

の楽曲の中から、1978年・全米12位のヒット曲

「夜のハリウッド」をお送りしました。

9月11日(木)の名盤は…

今日は、1970年代初頭に結成された男性2人、女性2人からなる

4人組のコーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーを紹介しました。

基本的にはジャズ・コーラスの流れを汲むものの、

ドゥー・ワップやリズム&ブルースの影響も大きく、

ジャイヴ、カリプソ、シャンソンからブラジルまでも取り込み、

あくまでもポップに仕上げる独特のスタイルは、

まさにジャンル分けが不可能です。

グラミー賞をジャズ部門とポップ部門にまたがって

通算8度も受賞していることからも、本物のボーダーレスな

音楽であることが分かると思います。

おそらく、まだジャズだのリズム&ブルースだのロックだのが

誕生する以前、音楽が細分化する以前の根っこの部分を

ルーツとしてしっかり押さえているからこそ、ジャンルなんか飛び越えて、

彼ら独特のボーダレスな音楽になったのかもしれません。

今日は、そんな彼らの楽曲の中から、

1960年代のリズム&ブルースのグループ、アドリブズのカバー曲で、

1981年、ポップチャート7位を記録した曲、

「ボーイ・フロム・ニューヨーク・シティ」をお届けしました。

9月4日(木)の名盤は…

今日は、1960年代末から70年代にかけて数多くのヒットを生み、

日本でもとても高い人気を誇ったスリー・ドッグ・ナイトを紹介しました

このグループ、実は他に類を見ないほどユニークなんです。

まず、バンド4人にヴォーカル3人の7人編成。

コーラスでハモるための3人ではなく、リード歌手が3人いて、

それぞれスタイルが違うんです。ということは7人組の1つのバンドではなく、

歌手の異なる5人組のバンドが3つあるのと同じと考えられます。

これによって激しいロックンロールから甘く美しいソフト・ロック、

さらにソウル/R&B調まで、幅広い楽曲を無理なく自然に

演奏することができたのです。

さらにユニークなのは、その幅広さとも関係が深いのですが、

ビートルズ以降、ロック・バンドは自作自演が当然、

それでこそロックという風潮が支配する中で、

彼らは自分達で曲を書かなかったんです。

もちろん、職業作家に発注して書き下ろしてもらう、

なんてアイドル歌手みたいなことはしません。

じゃあどうしたかというと、他人の曲をカバーしたのです。

「なーんだ、それじゃ、安直な企画バンドじゃん」と思わないで下さい。

ヒット曲は1曲もカバーしていません。

ヒットはしなかったものの隠れた名曲、まだ新人で無名で実績もない

優れたミュージシャンの楽曲などを掘り起こしたり、

青田買いしたりして、自分達の個性に合わせて息吹きを与え、

ヒットさせるのが彼らの喜びだったのです。ニルソン、ランディ・ニューマン、

ポール・ウィリアムスなどなど、彼らが取り上げたおかげで有名になり、

オリジナルもヒットするようになった例が山ほどあります。

無名の優れた楽曲を集めてくる選曲の確かさと、

それを自分のものにするアレンジ能力の秀逸さ。

これこそがスリー・ドッグ・ナイトのユニークな個性と言えるでしょう。

これって、今のクラブDJにとても近いと思いませんか?

8月28日(木)の名盤は…

来週からは新学期も始まります。夏が暑ければ暑かったほど、

楽しければ楽しかったほど、なーんか物悲しさを感じる時期ですが、

そんな夏休み最後のこのコーナーでご紹介するのは、

クリス・レインボーという人です。クリス・レアではありません。

このクリス・レインボーは、1975年から79年の間に

3枚のアルバムを発表していますが、ほとんど売れていません。

ヒット曲もありません。

日本では1993年にCD化されるまではレコードが出ていませんでした。

ただ、アラン・パーソンズ・プロジェクトでリード歌手を務めているため、

知らないうちに声を聴いたことがある人は多いかもしれませんね。

スコットランド出身ながら、ビーチ・ボーイズ・フリークで、

3枚のソロ作ではその影響を“一人多重コーラス”で再現しています。

本家のビーチ・ボーイズと言えば夏の代名詞ですが、

真夏の楽しさとともに夏の終わりの寂しさもたくさん楽曲にしています。

その部分を特に拡大解釈して、

イギリスならではの湿り気をさらに加えたのが、

このクリス・レインボーと言えるかもしれません。

今でこそ再評価され、フォロワーも多数存在する

ビーチ・ボーイズのこの側面ですが、70年代半ばは、

一番人気が低迷した時期。そんな時にこれをやっていたので、

売れなかったのも当然なのでしょうが、

見方を変えれば15年早過ぎたとも言えます。

今日お送りしたのは、「イズ・ザ・サマー・リアリー・オーヴァー」という

曲ですが、終わりゆく夏のせつなさが溢れた名盤です。

8月21日(木)の名盤は…

この世で最もたくさんカバー、リメイクされているのは、

ビートルズじゃないかと思うんですが、

さらに最もパロディの対象とされているのもビートルズでしょう。

ビートルズ・パロディの最高峰としては 「ラトルズ」というバンドが有名ですが、

まぁ、そんなパロディと呼べるほどの批評性はなく、

ただビートルズで遊びましたという感じで、

世界的に一番ヒットしたと思われる「スターズ・オン」を紹介しました。

オランダの有名プロデューサーが、ある日ふっと

「ビートルズの有名な曲をメドレーでつないでみたら面白いかも」と

思いついたんです。それから、いろいろな曲のテンポを合わせて、

それが不自然にならないように全体を一定のディスコ・ビートに乗せて、

ハンド・クラッピングをかぶせる。

・・・と、口で言うとこれだけの、だれでも考えそうな、安直な曲なんです。

実際、これと似たような企画は、

この数年前にフランスのカフェ・クリームというグループが

すでにやっていました。

恐らくここからヒントを得たんじゃないかと思いますが、

オランダのスターズ・オンの方が凄かったのは、その完成度の高さです。

まず、曲のつなぎの見事さ。必ずしも大ヒット曲、有名曲にこだわらず、

つなぎ重視の選曲が絶品です。

そして国内を代表する腕利きのスタジオミュージシャンを集めた

演奏コピーの忠実度の高さ。

さらに歌手にそっくりさんを持ってきたというアイデアが素晴らしかったんですね。

特にジョン・レノンの声は凄く似ています!

安直な企画でも、細部を煮詰めると名作になるという見本のようなものです。

当然のようにオランダはもちろん、全米でも1位、世界中で大ヒットとなりました。

この後を追うようにアバ、ローリング・ストーンズなど、

ジャズやクラシックまでメドレー・ブームが巻き起こりましたが、

ここまで完成度の高いものは出来るはずもなく、

あっという間にブームは終わりました。

今日お届けしたのは、1981年の曲「ショッキング・ビートルズ」でした。

8月14日(木)の名盤は…

今日はカトリーナ&ザ・ウェイヴスを紹介しました。

1985年の大ヒット曲、「ウォーキング・オン・サンシャイン」で有名なこのバンド、

ヴォーカルで紅一点のカトリーナがカンザス出身のアメリカ人、

ベーシストが沖縄生まれのアメリカ人、ギタリストとドラマーがイギリス人という、

アメリカ、イギリス混成の4人組です。

1981年に結成、4年間地道に活動を続け、初めてのヒットとなったのが、

この「ウォーキング・オン・サンシャイン」です。

「ドッ・ドッ・ドー、ドッ・ドッ・ドドー」という、

いわゆるモータウン・ビートと呼ばれるリズムを使用した

明るく爽やかなロックンロールのこの曲。

もうこのリズムだけで決まり、という感じで、名曲であることが

約束されているようなものです。

誰もがウキウキする、誰もが思わず腰でリズムを

とってしまうこのビートを使った曲には、名曲、ヒット曲が多いわけですが、

じゃあ、みんな使えばいいじゃん、というわけにもいきません。

しっかりしたメロディを乗せなければ、

楽曲がリズムに負けてしまうのです。

しかも、それほど有名かつ偉大なリズムですから、

下手に使うとリスナーに反発される恐れがあるんですね。

単なるヒット狙い、ウケ狙いの軽い気持ちでパクったヤツというのは、

何となく分かっちゃいますよね。

だからこそこのリズムを使うのは勇気がいるし、

名曲でなければ恥ずかしくて使えないというわけです。

その点、この曲はイントロのドラムの連打、それにうまく絡む

ホーン・セクション、ぴったりの歌詞、なによりカトリーナの歌唱力と、

偉大なリズムに負けない魅力を持った素晴らしいナンバーです。

なお、彼らはこの後ヒットが出ず、一発屋と呼ばれていましたが、

12年後の1997年、「ラヴ・シャイン・ア・ライト」という、

この曲をも超える大ヒットを生み出し、

一発屋というありがたくない看板を見事返上。

しかもこの間に一人もメンバーが変わっていませんでした。

信じるものがあったんでしょうね。

8月7日(木)の名盤は…

今週は、ある意味80年代を代表するポップ・スターといっても

過言ではないグループ、「ワム!」を紹介しました。

ワム!と言えば、80年代から90年代に世界を代表する

アーティストとなったジョージ・マイケルと、

今はどうしているのでしょうか?アンドリュー・リッジリーの2人でデビューした

イギリスのデュオ・ユニットです。

リアル・タイムで体験した人は思い出してほしいのですが、

最初は完全にアイドル扱いでした。

多分、あの時点でジョージが後にあんな大物になると想像した人は

ほとんどいなかったんじゃないかと思いますが・・・。

それどころか、ルックスのいいアンドリューのほうが人気があって、

プロモーション・ビデオを見てもただ歌っているだけのジョージより、

ギターを弾いているアンドリューの方が、

アーティスティックな感じさえしたのです。

もちろん歌はうまかったですし、

ほぼ全曲の作曲とプロデュースもジョージ本人と

クレジットはしてありましたから、

そこで素直にジョージの才能に気づくべきだったのでしょうが、

当時は通の音楽ファンほど

「絶対に黒幕(ゴーストライターとかプロデューサーとか)がいるはずだ」と

思っていたようです。

それくらいまったくの新人の、まだ若いイギリス人が作ったとは思えない、

ブラック・フィーリング溢れる楽曲と歌唱力だったのです。

「アイドルにこんな才能ある訳ない」と半信半疑だったマニアたちも、

2ndアルバムの頃には、「ひょっとしたら本物かも?」と冷や汗を流し、

3作目、そして解散後のジョージのソロとなる頃には、

「恐れいりました」と脱帽するしかありませんでした。

最初っから黒幕なんていなかったんですね。

25年経った今聴いてもまったく色あせないエヴァーグリーンなポップス。

90年代後半からは私生活で問題を起こして逮捕されるなど、

ゴシップが目立っていますが、そんなことがなければ、

音楽シーンにおける彼の存在は今頃どうなっていたことか・・・。

つい先日、テレビ番組「アメリカン・アイドル」のゲストとして

出演していたそうですが、才能は本物なのですから、

これからまた音楽の道で頑張って、作品を届けてほしいですね。

7月31日(木)の名盤は…

今週はニュー・オリンズ・ソウルを代表するグループ、

ネヴィル・ブラザーズを紹介しました。

一番古くは1950年代からホーケッツ、60年代にはミーターズ、

あるいはソロ歌手としてそれぞれ活動していた、

アート、チャールズ、アーロン、シリルのネヴィル4兄弟が、

1977年に集まって結成したのがこのネヴィル・ブラザーズです。

兄弟で組んでからも30年以上になる大御所です。

彼らの魅力といえば、アーロンのヨーデルを彷彿させる

甘い独特な美声を生かしたスウィートなバラードと、

もうひとつはなんといっても”セカンド・ライン・ビート”と呼ばれる

強力なリズムのファンク・サウンドでしょう。

ジャズ発祥の地、ニュー・オリンズの伝統ともいえるこの

”セカンド・ライン・ビート”は、この地ならではの文化から生まれています。

ニュー・オリンズではお葬式の時、

墓地まで音楽隊を伴ってパレードを行います。

まずは遺族と関係者だけで重々しい曲を演奏しながら棺を運びます。

これがファースト・ライン。

その後ろから近所の人や全く関係のない人や

たまたま通りがかった人までもが参加して、

対称的に賑やかで派手な曲を演奏しながら、踊り、鳴り物をならしながら

パレードを盛り上げるのです。これがセカンド・ライン。

ファースト・ラインが個人を悼むためのもので、

セカンド・ラインは魂が解放されて天国へ行くことを祝う

意味があると言われています。

このセカンド・ラインの明るく楽しく、そしてシンコペイションの効いた

協力なリズムを、R&B/ファンクと融合させたのが、

セカンドライン・ファンクです。

ニュー・オリンズの人たちにとっては生まれた時から親しんでいる、

生活に密着した生命力に溢れる協力なグルーヴ。

それを洗練させて商業音楽として成立させた第一人者が

ネヴィル・ブラザーズです。

7月24日(木)の名盤は…

今週は別に夏の歌ではないにも関わらず、

強烈に夏を連想させる曲をご紹介しましょう。

ジグソーの「スカイ・ハイ」です。

なぜこの曲は夏をイメージさせるのか、

タイトルの「スカイ・ハイ」=「どこまでも高く青い空」だからかというと、

恐らくそうでもないんですね。その辺を今日は解明してみたいと思います。

まずジグソーは1966年にサックス2人を含む

6人組で結成されたイギリスのグループです。

デビュー以来、今ひとつパッとしなかった彼らに、

1975年、チャンスが訪れます。なぜか香港/オーストラリア合作の

カンフー映画のテーマ曲の依頼が来たのです。

これに提供したのが、この「スカイ・ハイ」で、見事全米3位、

全英9位の大ヒットを記録、一躍世界的人気を獲得しました。

日本でも当然ヒットしましたが、2年後にとんでもない大事件が起こります。

“千の顔を持つ男”として大人気の覆面レスラー、

ミル・マスカラスの入場テーマに使用され、

オリコン2位の爆発的ブームとなったのです。

さらに80年代にはテレビの「鳥人間コンテスト」のテーマ曲として有名になり、

21世紀になると、巨人軍・二岡のテーマとしても有名になりました。

ミル・マスカラスは子どもたちの夏休みに合わせて毎年来日していましたし、

「鳥人間」の放送も夏休み。野球のナイターも夏、ということで、

この曲は日本の夏の風物詩と言っても過言ではない存在になっています。

30年以上にわたって、何かにつけ耳にする、

日本の洋楽を代表する大ヒット曲ですね。

さて、実はこの曲、御存知の方も多いでしょうが、

冒頭の歌で「Blown blown blown・・・」と

エコーがかかっているのと、かかっていない2つのバージョンがあります。

シングル版は全てエコーがかかっていますが、

サントラ版はかかっていないんですよ!

7月17日(木)の名盤は…

先週は黒人差別が根強く残っているアメリカ南部、

特にアラバマ州と州知事のウォーレスを批判したニール・ヤングの

「サザン・マン」を紹介しました。

当然ながら、南部の人々は怒り、反撃しました。

そして“歌には歌で”と、アンサーソングを返したバンドが登場します。

レーナード・スキナードです。この7人組、実はアラバマ出身ではなく、

フロリダのバンドなのですが、アラバマのマッスルショールズ・スタジオを

本拠地としており、アラバマを悪く言われたことにガマンが

ならなかったのでしょう。

彼らが1974年にリリースし、大ヒットした「スウィート・ホーム・アラバマ」は、

こんな内容です。

~ああ、Mr.ヤングがアラバマについて歌うのは聴いたよ。
うん、あのおじさんはアラバマを叩いていたな。                                              ニール・ヤングには覚えておいてほしいね。
サザンマンにとっては、あんたなんか知ったこっちゃないって。~

理性的に諭そうとしたニール・ヤングに対して、こちらは名指しで感情的。

しかもこの後に、

~みんな州知事を愛している。最善を尽くしたんだ。                                      楽しい我が家アラバマ。どこまでも青い空~

なんていう歌詞が続くわけですから、能天気と言われても

仕方がないかもしれません。

でも彼らは人種差別を否定も肯定もしている訳ではありません。

彼らの本拠地マッスルショールズ・スタジオは、

古くからソウル音楽の名作をたくさん生み出した名門で、

そこでは白人も黒人も同じように活動していました。

そんな良い環境のスタジオ内しか見ていない

フロリダ人の彼らにしてみれば、ニール・ヤングの批判は

ピンとこなかったのかもしれませんね。

ところで“人種差別は永遠だ”と宣言したアラバマ州のウォーレス知事、

先週お話したように、1970年にニール・ヤングが「サザン・マン」という歌で

異議を申し立てた後の、

1972年に大統領予備選に出馬。この時に銃撃され半身不随になり、

差別主義政策を公式に謝罪しました。

謝罪した後は黒人支持も上昇し、結局ウォーレスさんはこの後4期、

知事を務めたということも付け加えておきたいと思います。

7月10日(木)の名盤は…

先週は“メッセージを伝えるメディアとしてのロック”というお話をしましたが、

今週と来週はもう一歩踏み込んで“歌のやりとりによる論争”の

最も有名な事件のひとつを紹介しました。

今週の主役は「ニール・ヤング」です。

今や実力、人気ともロック界の頂点の一人と言える大御所で、

そういう地位にありながら休むことなく新作発表とツアーを続ける

“現役感覚”では他の追随を許さない偉大な人です。

彼は特に政治的な歌ばかり歌っているわけではないのですが、

昔から自分の納得できない事件や出来事があると、

すぐに歌で噛み付くロックな人です。

ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争すべてに異議を申し立てています。

そんな彼が特に怒ったのが人種差別。

黒人公民権運動を武力で弾圧したアラバマ州知事ウォーレス、

そして彼を選んだアラバマ州に対して、いや、黒人差別が根強く残っている

すべてのアメリカ南部に住む人々に対して歌ったのが、

1970年に発表した「サザン・マン」でした。

この歌の歌詞はこんな感じです。

~南部の人々よ、落ち着いたほうがいい。聖書の教えを忘れるな。

南部よ、変わるんだ。綿花に黒人。白亜の豪邸に小さなボロ小屋。

南部の人よ。いつになったら彼らに償う?

今日も聴いたよ。彼らの悲鳴と鞭の音。いったいいつまで続くんだい?~

とにかくこのウォーレス知事という人は、“人種差別は永遠だ”と宣言して

南部の白人に絶大に支持されていた人で、ニール・ヤングとしては、

この知事も支持者も異常にしか思えなかったのでしょう。

理性的に言葉を選び、極力抑えた諭すような歌い方ですが、

ガマンできなかったのか、激情が爆発したかのような

ギター・ソロが怒りの大きさを表現した名曲、そして名演奏です。

お届けしたのは、ニール・ヤングで「サザン・マン」でした。

7月10日(木)の名盤は…

今日はゲイリー・ムーアを紹介しました。

ロックはただの音楽ではなく、それ自体がメッセージを伝えるための

メディアなのだ、と言われます。

確かにロックの長い歴史の中では様々なメッセージが歌われ、

時には個人攻撃したものまで存在します。

今日は紹介したゲイリー・ムーアの「レッド・クローンズ」は、そんな1曲です。

世界で最も偉大なハード・ロック・バンドと言えば、

レッド・ツェッペリンとディープ・パープルじゃないでしょうか。

けれども、その後のロックの歴史で、ディープ・パープル的なバンドは

数多く登場しましたが、ツェッペリンに直接的に似ているバンドというのは、

皆無に近いような気がします。これは技術的にマネできないというよりも、

それ以上に、「ツェッペリンは別格。神聖にして犯すべからず存在」という空気が

暗黙の了解とされていた背景があったのです。

ところが1980年代後期にそれが破られます。

口火を切ったのは有名なベテラン・バンド。楽曲がモロにツェッペリン風なのに加え、

プロモーション・ビデオではモノマネまで飛び出しました。

続いて現れた新人はコピー・バンドかと思えるほどで、

ボーカルの声質までそっくりでした。

これらに噛み付いたのが、ツェッペリンの元メンバー達、

ではなく、まったく関係のないゲイリー・ムーアです。

その名も「レッド・クローンズ」という曲で、ホワイトスネイクの「スティル・オブ・ザ・ナイト」と、

キングダム・カム「ゲット・イット・オン」のバンド名と曲名を巧妙に歌詞に織り込んで、

“もうたくさんだ、ツェッペリンのクローンどもめ!!”と断罪したのです。

楽曲もツェッペリン風なのですが、“やるならこれくらいやってみろ”と

手本を示すというのではなく、むしろクローン達のパロディのように聴こえます。

彼らの技量ならば、もっと完璧にやれるはずなのに、

わざとツメを甘くしている気がするんです。

ムーアにとっても、他人事ではないくらいに、

ツェッペリンは特別で神聖な存在だったんでしょうね。

この事件はファンをも巻き込み、「レッド・クローンズ論争」と呼ばれましたが、

結果的にクローン達はフェード・アウトして終わりました。

6月26日(木)の名盤は…

今日はドゥービー・ブラザーズを紹介しました。

長く活動を続けるバンドだったら、ファンの年代層によって、

言い換えれば、どの時代を熱心に聴いたかによって、

バンドのイメージが変わることは多少なりともあるものです。

しかし、このバンドほど真っ二つに分かれるのも珍しいのではないでしょうか。

というよりも、ドゥービー・ブラザーズという名前の違うバンドが2組あった、

と考えるべきなのかもしれません。

もともとはツイン・ドラム編成に黒人ベーシストによる力強くて

ファンキーなリズムを土台にした、野性味溢れるギター・ロックで、

「ロング・トレイン・ランニン」や「チャイナ・グローブ」といった名曲を生み出し、

1970年代ウエスト・コーストをイーグルスと並んで代表するバンドでした。

ところが、途中でリーダーのトム・ジョンストンが体調不良で

休業(結局戻らず、脱退)したため、代役として元スティーリー・ダンの

マイケル・マクドナルドが加入。ここが運命の分かれ道でした。

スティーリー・ダンからはもう1人参加しており、

まさにスティーリー・ダンに乗っ取られたような形で音楽性が変化。

ジャジーで都会的に洗練された

AOR/シティ・ポップスになってしまったのです。

そしてこの路線で、バンド初期以上の成功を勝ち取り、

グラミー賞まで独占したのです。

70年代後期から80年代前半まで、ドゥービーズと言えば、圧倒的にこちら。

後期を指しました。

しかし90年代は初期メンバーで再結成し、

また、初期のファンキー・ロックがDJ達に再評価され、

後期ドゥービーズの印象も若干薄れた感があります。

今日お届けしたのは、後期の名曲。1978年の全米No.1ヒット曲。

「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」。

ドゥービー・ブラザーズというバンド名、

実は直訳すると「麻薬兄弟」なんですが、

そんなバンド名が全然似合わない、おしゃれなAORです。

6月19日(木)の名盤は…

今日紹介したのは、フォーカスの「悪魔の呪文」という曲です。

音楽の世界では、稀に「変な曲」(?)がヒットすることがあります。

たいがい企画モノのノベルティソングである場合が多いのですが、

そうではなく、やっている本人たちは笑わそうなどとは少しも思ってなく、

いたって大マジメなのにも関わらず、

出来上がったものは非常に変な曲であり、

それがとてもヒットしてしまった、というものの最たる例が、

何と言ってもこの曲じゃないでしょうか。

全米チャートで9位まで上昇した大ヒットなので、

オールド・ファンには有名な曲ですが、

なにしろ35年以上も前なので、初めて聴く方も多いと思います。

オランダのロック・バンド、フォーカスが生んだ、一世一代の変わった曲。

気になる方はぜひ聞いてみて下さい♪

1973年全米9位のヒット曲、悪魔の呪文 / フォーカス

6月12日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ザ・ロマンティックス」です。

1980年代前半のアメリカ、1979年に突然現れた新人バンド、

ナックの超大ヒット「マイ・シャローナ」の奇跡をもう一度、

とばかりにこの時代にはたくさんのビート・バンドが登場しました。

ビートルズ、ストーンズ、キンクス、フーといった60年代イギリスの

ビート・ミュージックをルーツとした、ポップで切ないメロディと

シンプルなロックンロール・ビートを、70年代ハード・ロックとパンクを

通過した感性で再構築したサウンドは、パワー・ポップと呼ばれ、

それなりのブームとなりました。

“それなりの”と言うのは、バンドこそたくさん生まれたものの、

メジャー・レベルでヒットを放った者がほとんどなかったからです。

当のナックでさえ、「マイ・シャローナ」以降はパッとせず、

悲しいかな“一発屋”と呼ばれてしまう有様。

それにもかかわらず、次々とこの手のバンドが現れては消えていったのは、

ナックの衝撃がいかに巨大だったか、そしてパワー・ポップという音楽が

若者にとって普遍的な魅力に溢れているかの証明といえるでしょう。

そんな中、ナックに近い成功を手にしたバンドが、ロマンティックスです。

なのですが、彼らは1977年にデビューですから、実はナックより先輩。

1980年にメジャー進出。3枚のアルバムが泣かず飛ばずで、

1983年にリリースした4作目からカットしたシングル

「トーキング・イン・ユア・スリープ」が、全米3位の大ヒットとなります。

ただ、この曲は彼らの中でも異色作で、

魅力を100%出し切ったものとは言えないナンバーでした。

もちろん、本人たちとしては許せる範囲での妥協だったのでしょうけれど。

結局、彼らもナック同様に一発屋のレッテルを貼られてしまうのですが、

改心の傑作が当たって本望なナックに対し、

後味の悪さが残っているのでは、なんて考えるのは大きなお世話でしょうか。

6月5日(木)の名盤は…

今日は1980年代前半に活躍したクォーターフラッシュを紹介しました。

アメリカのオレゴン州ポートランドで1960年代に結成された

高校生バンドを母体とし、やはりポートランドで活動していた

他のバンドのメンバーと合体。

6人組のクォーターフラッシュとなったのが、1980年。

この間に中心メンバーの紅一点ヴォーカル、リンディと

ギタリストでほとんどの曲を手がけるマークは結婚しています。

まず地元インディ・レーベルから発表したシングル「ミスティ・ハート」が、

ポートランドのラジオで1位となり、これを認められてメジャーと契約。

1981年末にメジャー・デビューを果たします。

デビュー曲に選ばれたのは、もちろん「ミスティ・ハート」。

地元ではすでに人気曲だったこれを、お金と手間をかけて

メジャー流のサウンドに新録音したものです。

これがラジオを中心にして注目が全米に広まり、

じわじわとチャートを上昇。

年が明けて1982年2月には全米3位を記録する大ヒットとなったのです。

バンドを始めてからおよそ15年。結婚して30歳を超えての遅咲きながら、

大輪の花をデビューにして咲かせたのでした。

でもかえってこれがよかったのかもしれません。

ヴォーカルのリンディは歌いながらサックスも吹くのですが、

(当時はとして女性がサックスを吹くのはとても珍しかったのです。)

これが実にカッコ良く、ヴォーカルの艶っぽさといい、サックスの音色や、

構えたときの立ち姿といい、二十代の女性とはまた違う、

セクシーな雰囲気が漂っていたからです。

彼女の二十代の時を知らず、いきなり三十代での登場だったからこそ、

全米の若者のソウルをわしづかみにしたのではないでしょうか。

あえて抑えたノリと構成もそんな魅力を強調した名曲です。

5月29日(木)の名盤は…

リズム・シリーズ第2弾!

1980年代末から90年代初頭にかけてのイギリスのお話をしましょう。

先週はアメリカで大流行した

ニュー・ジャック・スウィングというリズムをご紹介しましたが、

ニュー・ジャック・スウィングから遅れることおよそ1年、

1989年に「キープ・オン・ムーヴィン」という曲が大ヒットします。

アーティストは後に日本でも広く知られることとなるSOULⅡSOUL。

この曲で使われたリズムが、これまで誰も聴いたことのない、

革命的に新しいものでした。

部分的には時代の必然か、ニュー・ジャック・スウィングと似ています。

どちらも1980年代中期にワシントンD.C.だけで局地的に流行した

ゴーゴーというリズムの流れを汲む、ハネるビートです。

決定的に違うのは、レゲエをルーツとする低くウネって沈み込むベース・ライン。

この”沈み込む”、”潜り込む”、”地面を這い回る”イメージから、

グラウンド・ビートと名づけられました。

ハネるビートと沈み込むベースという、相反する要素が同居して、

テンポも遅く、隙間の多いサウンドが、

ホットなニュー・ジャック・スウィングに対して、

クールなカッコ良さを生んだのです。

さらに打ち込みならではの揺らぎのなさが気持ちいい

ニュー・ジャック・スウィングと正反対にこちらは打ち込みなのに

人間臭いグルーヴを作り出したのが奇跡的でした。

当然のように大流行し、90年代初めの音楽シーンを

ニュー・ジャック・スウィングと二分する人気のリズムとなったのでした。

さて、このSOULⅡSOUL、クラブDJのジャジー・Bという人が

中心のユニットだった訳ですが、

この人はDJならではの編集能力に長けた人で、彼のアイデアをもとに、

実際のサウンド作りは、後にビョークのプロデューサーとして

名を上げるネリー・フーパーが担当。

さらにリズムをプログラムしてグラウンド・ビートを作り出したのは、

元MUTE BEATのメンバーと言うべきか、

後のシンプリー・レッドのドラマーと言うべきか、

はたまた藤井フミヤのプロデューサーと言ったほうが分かりやすいのか、

つまりGOTAこと屋敷豪太。

実は世界を席巻したリズムは日本人が発明していたんですね。

5月22日の名盤は…

今日はリズム・シリーズVol.1と題してお送りしました。

ブラック・ミュージック/クラブ・ミュージックの世界で一番重要なのは、

リズム/ビートです。

常に時代のテンポに合ったビートが求められ、

それにピタリと同調したものがヒットする訳です。

逆に言えば、新しいビートの発明こそが、

この種の音楽の進化そのものと言えるでしょう。

そこで、今週と来週の2週は、1980年代後期から1990年代初頭にかけて、

アメリカとイギリスでそれぞれ大流行した2大リズムを紹介します。

まずはアメリカ編。1987年にキース・スウェットの

「アイ・ウォント・ハー」という曲がヒットしました。

この曲、それまでのいわゆる80年代ファンクとは

微妙なニュアンスの違いなんですが、明らかに一線を画す

新感覚のビートを持っていたのです。

作曲したのはテディ・ライリー。この曲ではまだ完成とは言えなかった

この新しいビートを、ライリーは自らのグループ、GUY(ガイ)を通じて

1年後に確立します。これがニュー・ジャック・スウィングというリズムです。

ニュー・ジャック・スウィングの特徴は、文字にすると難しくなりますが、

うねりながらも小気味よくシンコペイトするリズムと、

16ビート三連譜の細かいハイハットの組み合わせ、

ということになります。異様にハネるホットなビートとでも言いますか。

ポイントは2つ。シンコペイションの基本はファンクの流れなんですが、

そこにジャズに通じるスウィング感が加わっていること。

だからこそのニュー・ジャック・スウィングという名前なんです。

もう一つは、打ち込みによる、ユレのないジャストなビートであること。

揺らぎがないからこそ気持ちいい、というのが革命的に新しかったことと、

打ち込みであるがゆえに音楽的技量を問わず、

だれでも手軽に真似できたことが、

爆発的ブームにつながった重要なポイントです。

1990年前後の数年間のアメリカは、

まさにニュー・ジャック・スウィング一色というほどだったのです。

あのアーティストに影響を与えた…

今日はあるエピソードから紹介します。

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1960年代初頭のアメリカ。

ある少年がラジオから流れるロックン・ロールに夢中になりました。

まだビートルズ登場前。

当時のスターはエルヴィスにバディ・ホリー、チャック・ベリーなどなど。

でも、少年には彼らと同じくらい好きな、自分だけのヒーローがいました。

「あの人みたいになりたい。」少年はギターを覚え、歌い始めます。

ヒーローは1960年~1962年の間に8曲をヒットさせるも、

それ以降はパッとせず、名前を耳にすることもなくなってしまいましたが、

少年にとってのヒーローの地位は揺らぐことはありませんでした。

やがて時は流れ、少年は夢を叶え、プロのロックン・ローラーとなりました。

彼の名前は「ブルース・スプリングスティーン」

1980年代に突入しようかというある時、

すでにスターになっていたブルースは、

全米ツアーの移動中に立ち寄った田舎町の場末のバーで、

まばらな観客を前に歌っている中年の黒人を目撃します。

声を聴いただけで彼の正体がわかったブルースは、

震えながら楽屋を訪ねます。

「ゲイリー・U.S.ボンドさんですね。

僕と一緒にレコードを作って下さいませんか?」

しかし、彼はショー・ビジネスの世界に嫌気が差していて、

ブルースのことも知らないほどに業界から離れていたため、

なかなか首を縦に振りません。

そこでブルースはギターを借り、歌い始めます。

それは目の前の中年男性の

唯一の全米No.1ヒット「クォーター・トゥ・スリー」でした。

男性は言いました。「あんた、なんでこんな古い歌を知ってるんだ?」

ブルースは答えます。

「あなたは僕のヒーローなんです。この仕事を続けていれば、

いつかお会いできると信じて、ずっとステージで歌ってるんです」。

この言葉に復帰を決意した彼は、

ブルースの全面バック・アップの下、アルバムを制作。

シングル「いかしたあの娘」で、

1981年に20年ぶりにヒット・チャートに返り咲きました。

20年に亘るブルース・スプリングスティーンの一方的な師弟関係は、

世代を超えた男の友情となったのでした。

5月8日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ネッド・ドヒニー」です。

1948年、ロサンゼルス・ビバリーヒルズで生まれ、

7才からギターを弾き始めた彼は、

クラブで自作曲を弾き語っていたところを見出され、

新興レーベル、アサイラムからデビューしたのが1972年。

当時流行のシンガー・ソングライターの流れを汲みながらも、

他とは一線を画すファンキーなリズムと、少年のような甘いヴォーカルが独特、

一部のマニアに高い評価を受けました。

その個性をさらに推し進め、確立させたのが、

4年後にCBSへ移籍して発表した2ndアルバム「ハード・キャンディ」です。

これは世界中でヒットし、AORを決定付けた名盤として、

彼の名を知らしめました。

ところが彼の音楽活動は、本国アメリカではここで終わってしまいます。

翌1977年に録音した3作目はレコード会社が発売を拒否。

2年後に日本だけで発売されましたが、この後、彼の名前は消えます。

1988年、およそ10年ぶりに復活するも、

日本の会社との契約だったため、アメリカでは未発表。

ここで4枚のアルバムをリリースしますが、

1993年を最後に現在まで新作は出ていません。

実はこの人、ロサンゼルスでも屈指の大富豪の息子なんです。

実家近くに「ドヒニー通り」という名前の道があるほど。

生活にはまったく困っていないのです。

その点を“金持ちの道楽”とか“甘ちゃん”と指摘することはたやすいでしょう。

けれども、確かに「私には音楽しかないんだ」と、

この道一筋の迫力が名曲を生み、

われわれを感動させる場合が多いわけですが、

音楽に生活がかかってないことの余裕から生まれる名盤もあると思うのです。

彼の最大の武器は、この「音楽なんていつだってやめられる」という

凄みではないでしょうか。

普通のミュージシャンには絶対に身にまとうことのできないこの凄みと共に、

久々に新作を聴かせて欲しいと願うファンはたくさんいるんじゃないでしょうか。

5月1日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ウィルソン・フィリップス」です。

とても偉大な有名人を親に持つ子どもが、

後を追うように同じ道に進む、ということがよくあります。

当然ながら親を超えた人、超えられない人がいて、

これはどちらにもドラマが存在する訳ですが、

最も興味深いのは、“最初から超えられないと分かっているのに、

同じ道に挑む子ども”ではないでしょうか?

例えばジュリアン・レノン。あるいはジェイコブ・ディラン。ジギー・マーリー。

実力で親を上回る成績、仮に全米No.1ヒットを100曲送り込もうが、

1億枚CDを売り上げようが、時代を象徴するヒーローとしての

ジョン・レノンやボブ・ディラン、オブ・マーリーを超えることは、

絶対に不可能だということを、周りも自分自身も分かっているであろうに、

なお、同じ道を歩んでいるのです。

この覚悟というか決意には、“血”とか“業”といった一言では語れない

人間ドラマを感じずにはいられません。

今日紹介するウィルソン・フィリップスですが、

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘二人と、

ママス&パパスのフィリップス夫妻の娘によるトリオです。

フィリップスはともかく、ブライアン・ウィルソンという、

ある意味アメリカ最大の偉人を父に持つにも関わらず、

彼女らにはジュリアン・レノン達に共通するヘヴィな影や悲壮感が、

まったく感じられないのはなぜでしょう。性別が違うから?

3人に分散されて薄まったから?カリフォルニアの陽気な気候のせい?

おそらくは彼女らなりに人間ドラマはあったのでしょうが、

私達リスナー側が、彼女らのあまりの屈託のなさに、

親との比較という色眼鏡を通すことさえ忘れていたからではないでしょうか。

そのおかげか、彼女たちは全米No.1を3曲も放って、

親を超えたかどうかは別にして、大成功を収め、

たった3年で風のように屈託なく解散していきました。

(その後、2004年に復活しましたが・・・)

さて、ジュリアン・レノンやジェイコブ・ディランを

親との比較なしに見ることができる日がくるのでしょうか?

4月24日の名盤は…

今日はホワイトスネイクを紹介しました。

このバンドは元ディープ・パープルのヴォーカリスト、

デヴィッド・カヴァーデイルが、1978年に旗揚げしたもので、

ハード・ロック/ヘヴィ・メタル・ファンの熱烈な歓迎を受けましたが、

その割には本国イギリスや日本でこそ、そこそこヒットしたものの、

パープル時代ほどではなく、アメリカにいたっては満足にレコードも

発売されないという状態が続いていました。

なんとしてもアメリカでの成功を勝ち取りたかったカヴァーデイルは

1984年から拠点をアメリカへ移し、この国の市場を徹底的に研究します。

最初のアルバムは、

レコード会社に「こんな地味な音じゃこの国では売れないよ」と

勝手に派手なサウンドにリミックスされるという屈辱も味わいましたが、

これらの経験から少しずつ学習して、

3年後の1987年に完成させたアルバムが「サーペンス・アルバム」です。

原題はバンド名と同じ「Whitesnake」であることからも、

自信と背水の陣を両方感じさせる、

気合の入った本作からシングル・カットされたのが、

「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」でした。

この曲はイギリス時代、1982年のアルバムに収録されていたものですが、

これがアメリカでは未発売だったのと、

カヴァーデイル自信のお気に入りだったことで再録音したのです。

3年間の学習の成果を知らしめるべく、アメリカナイズされたこの曲を、

シングル化する際にさらに分かりやすく派手にリミックスしたおかげで、

遂に念願の全米No.1を獲得したのは、

バンド結成から、ちょうど10年経った時でした。

あまりにもポップで売れ線狙いのアレンジに、

昔から支持するヘヴィ・メタル・ファンからは非難されましたが、

これはどうでもよかったのでしょう。

なぜならカヴァーデイルはこう言っているからです。

「俺たちはブルース・ルーツのロックン・ロール・バンドであって、

ヘヴィ・メタルだったことは一度もない」と。

ブルース・ルーツのロックン・ロールともまた違うような気もしませんか・・・。

4月17日(木)の名盤は…

今日はヒューマン・リーグの「愛の残り火」を紹介しました。

1977年、イギリスの工業都市シェフィールドで、2人のコンピュータ技師が、

楽器を触ったこともないのにバンドを結成しました。

自慢のコンピュータで実験してみたかったんですね。

そこで学生時代の友人でルックスの良いフィル・オーキーに

ヴォーカルを頼みます。彼も音楽は素人でしたが、定職を捨てて参加。

さらにステージ上での見栄えの為に、もう1人やはり素人同然の男を加え、

4人組でスタートしたのがヒューマン・リーグです。

素人ならではの斬新なアイデアとコンピュータの実験的サウンドが話題となり、

1979年にデビュー。それほど売れませんでしたが、マニアには高く評価され、

今後が期待された矢先に、

最初の2人が「バンド名は君たちにやるよ。俺たちはもっと実験的なことがしたい。」と、

あっさり辞めてしまいます。

音楽は素人とはいえ、この2人はプログラミングのプロ。

残ったのは本当の素人の2人です。

でも、ツアー契約が残っていて、キャンセルすれば莫大な違約金が発生するので、

解散する訳にはいきません。

困った2人はプロの演奏家を2人、

そしてディスコでナンパした素人の女子高生を2人、

強引にメンバーに引き込み、なんとか契約を消化しました。

ところがこれが好評で、この6人で新しくレコーディングの話が決まり、

制作されたのが「愛の残り火」です。

初期ヒューマン・リーグの実験性は微塵もない、

まったく別モノの下世話なディスコ・ポップのこの曲が世界的に大ヒット。

フィル・オーキーは音楽的素人のまま、しかも自分の意志とは無関係に

ポップ・スターに成り上がってしまったのでした。

この後、彼は芸能界の浮き沈みを身をもって体験、

最後は素人の限界を思い知らされたようにフェード・アウトしていきました。

果たして、彼の人生は幸せだったのでしょうか…?

4月10日(木)の名盤は…

2008年初め、サンプラザ中野が“サンプラザ中野くん“に改名したと、

小さなニュースがありました。

去年は千葉真一が“JJサニー千葉”に改名するという話が、

これまた小さく取り上げられました。

“大人の遊び”とでもいうような洒落っ気が感じられますが、

一般的に改名する場合というのは、芸風を大きく変える時か、

「生まれ変わった気になって、一からやり直そう」という時などでしょうか。

さて、アメリカにジョン・メレンキャンプという、

非常に優れたロックン・ローラーがいますが、

この人の場合、なんだかよく分からないんです。

1976年のデビュー以来、

ジョニー・クーガー⇒ジョン・クーガー⇒ジョン・クーガー・メレンキャンプ⇒

ジョン・メレンキャンプと、現在の名前(=本名)まで3回名前を変えました。

音楽はまったく変わっていません。

じゃあ、売れなかったのかと言えば、とんでもない。

2番目のジョン・クーガー時代にすでに全米No.1を獲っているんです。

思うにこの人、クーガーという猛獣のニックネームが

嫌で嫌でたまらなかったんではないでしょうか?

だけどジョニー・クーガーがいきなりジョン・メレンキャンプになったら、

ファンが同一人物だと気づかないかもしれない。

それにクーガーという名前は嫌いだけど、

せっかくつけてくれた恩師に義理を欠くわけにもいかない。

よし、5ヵ年計画で少しずつ本名に近づけていこう・・・

なんて考えたのかどうかはまったく分かりませんが、

彼のひたむきで誠実で、義理人情の温かみを感じさせつつも

強い意志を持ったロックン・ロールを聴くと、

まったくのデタラメではないような気がしませんか?

4月3日(木)の名盤は…

4月2日は、

偉大なソウル・シンガーであり、作曲家でプロデューサーでもあった

マーヴィン・ゲイの誕生日でした。そしておとといの4月1日は、

彼が実の父親に射殺されるという

ショッキングな形で天に召された命日でもありました。

ということで、今日は、彼を追悼した、ある名曲をもって紹介します。

歌っているのはメイズというグループで、

彼らはマーヴィン・ゲイのプッシュにより世に出てきた、

いわば弟分にあたるグループで、シンガーでソングライターでもある

リーダー、フランキー・ビヴァリーは古き良き時代のソウルを感じさせる、

素晴らしい歌手です。

彼らがマーヴィンの死から5年を経た1989年にリリースした

「シルキー・ソウル」で、こう歌っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『絹のようになめらかなソウル・シンガーを知っている。

彼が僕らをどんなに感動させたか忘れない。

あの特別な男のことを覚えているか。

彼がどんなに多くのことを成し遂げたか。

僕には今も彼の甘い歌声が聴こえる。

絹のようになめらかなソウル・シンガー。

歌だけでなく、ダンスもスタイルも絹のような男。

でも最も素晴らしかったのは、内側にあったもの。

それは黄金のように無垢な心。その魔法は今も行き続け、

これからも決して古くならないと僕は信じている。』

途中でマーヴィンの代表曲のフレーズを挿入しながら、

見事に綴った名曲です。

「silky silky soul singer」という歌詞が「好き好きソウル・シンガー」と聴こえる

空耳ソングとしても日本では人気があります。

これを聴いて、何かが心に引っかかった人は、

廉価盤CDがいろいろ出ていますので、

マーヴィン・ゲイ本人を聴いてみてほしいと思います。

3月27日(木)の名盤は…

今日はシンプル・マインズの「ウォーターフロント」を紹介しました。

1980年代の音楽と言えば、皆さんどういったイメージを思い浮かべますか?

もちろん例外はありますが、一般的に言うと、独特のキラキラ感があって、

派手なサウンドが特徴だったと思います。

時代がバブリーで、そういった音を求めていたことや、

デジタル技術の台頭が要因と言われている訳ですが、

そんな派手な音を形成する典型が、シンセサイザーと、

個性的なドラムの音ではないでしょうか。

1980年、イギリスのスティーヴ・リリィホワイト、そしてヒュー・パジャムという、

どちらもプロデューサーであり、エンジニアでもある2人が、

世界中に革命を起こす発明をしました。

普通、ドラムの音は「ドッ・ドッ・タン、ドッ・ドッ・タン」と鳴るとします。

この「タン」にエコーをかけると、「ドッ・ドッ・ターン」となります。

ここまでは以前からありました。

彼ら2人はこの「ターン」の残響が自然に消えてしまう前に、

ノイズ・ゲートという機材でバッサリ切ったのです。

これによって「ドッ・ドッ・ター、ドッ・ドッ・ター」という、

それまで誰も聴いたことがなかったドラム・サウンドが誕生しました。

これをゲート・エコーと呼びます。

これを耳にした世界中のミュージシャンから2人に仕事のオファーが殺到、

一躍売れっ子のプロデューサーとなりました。

そうなると、他のエンジニアやスタジオも徹底的にゲート・エコーを研究し、

マネし始めるのは当然。猫も杓子もゲート・エコー。もうブームなんてものでなく、

80年代のドラム・サウンドを支配してしまいました。

冗談ではなく、この時代のヒット曲は、

ほとんどゲート・エコーが使われていますが、

90年代には飽きられ、その反動でナチュラルなドラムの音が流行しました。

「80年代の音楽が好きだなー」という人の多くは、

このゲート・エコーの音が好きなのかもしれませんね。

今日はその発明者に敬意を表して、

スティーヴ・リリィホワイトが手がけたシンプル・マインズ、

1983年のヒット曲「ウォーターフロント」をお届けしました。

3月20日(木)の名盤は…

突然ですが、実は僕、バンドを結成しました。

バンド名は“熊本”です・・・

なーんて言ったら、皆さんちょっと、いや、かなり引きますよね?

欧米にはシカゴ、カンサス、アメリカといった名前を臆面もなくつけちゃった

バンドが結構あるんです。

どういう気持ちでつけたのか、聞いてみたいですね~。

今日はそんなバンドの一つ、ボストンを紹介しました。

名前もすごいですけど、中身はもっと凄いんです、このバンド。

まず、バンドと言ってもバンドじゃないんです。

超名門マサチューセッツ工科大学卒のトム・シュルツという男性、

実質的には彼一人のバンドです。

メンバーはライブのために集められた人達で、

ほとんどはトムが全部レコーディングしています。

さらにこのトム、自分のギターは自分で作ります。

さらに自分のブランドで販売もやっています。

「これ1台でボストンと同じ分厚いギターの音が出せます」という

エフェクターを販売、相当儲かっているようです。

他にも本当かどうか、“絶対にチューニングの狂わないギター”や、

“留守中の植物への水やり機”などの特許を取っているらしいです。

そんな超理系人間ですが、コンピューターは大嫌いで、

現在もなお作品には一切使用していないのも凄い。

さらにさらに凄いのは、1976年のデビュー作から2ndまでは2年でしたが、

3rdは8年後の1986年、また8年後の1994年に4作目、

そして2002年に5作目がまた8年ぶりに発売と、

8年に一度しか働かないんです。32年の活動で5枚しか出していないんです。

次は2010年に出るんだか出ないんだか。

でも本当の本当に一番凄いのは、32年間音楽性がまったく、

1ミリも変わってないことです。

「ボストンってどんなバンド?」と聞かれたら、

この1976年のデビュー曲を聴かせればいいです。

「今もまったく同じだよ」と。

3月13日(木)の名盤は…

今日取り上げたのは元ちとせの「ワダツミの木」です。

この曲をはじめ、多くの元ちとせのヒット曲の作詞・作曲・編曲を

手がけたプロデューサーで、元レピッシュの上田現が、

3月9日、肺がんの為、47歳の若さで亡くなりました。

かなり大きく報じられたので、それだけビッグになっていたんだなーと

改めて感じた方も多かったかもしれません。

また、昔からのファンの人にとっては、もしかしたら今回の扱いに

どこか違和感を持ったという人もいらっしゃるのではないでしょうか。

その感覚を例えるなら、強いて言えば、今から20年ほど前になりますが、

漫画家の手塚治虫氏が亡くなった時に感じたものに近いかもしれません。

あの時の報道でも、故人の代表作として挙がったのは「鉄腕アトム」や、

「ジャングル大帝」といった子ども向けのものばかりだったように思います。

「きりひと讃歌」や「MW(ムウ)」などの、

人間の魂の暗闇の部分を描いた作品には触れず、

“日本から夢と勇気が消えた”なんていうコピーで訃報を伝える姿勢に、

疑問を感じたファンも少なくなかったのではないでしょうか。

手塚治虫の作品を読めば読むほど、

彼は愛、夢、希望、勇気といったものを一番疑っていた、

だからこそ大切にした表現者だったんじゃないかと思うんです。

そして、上田現もレピッシュ時代からソロまで一貫して、

殺伐とした人間の暗闇の部分を鋭くえぐり続けた表現者だったんです。

例えば、“恋人に早く会いたいから、車で人をはねたけど逃げた男“や、

“誘拐犯にそのまま育てられた子ども”とか“妻に逃げられ、子どもを手放し、

30歳の誕生日に自分の家に火をつけた男“のことなど。

上田現の作る歌はそんな歌ばかりだったんですね。

しかも最後に希望を匂わせることもなく、何も解決をつけずに、

まるで救いがないまま放り出して、聴き手に問いかけてくるんです。

そんな彼が、人間をドス黒い裏側から掘り続けて、掘り続けて、

こちら側に突き抜けた愛の歌が、

元ちとせの一連の作品ではないでしょうか。

「ワダツミの木」が限りなく美しいのは、彼女の歌の力はもちろんですが、

上田現が人間を掘り続けた、その道のりが美しいのかもしれませんね。

3月6日の名盤は…

今日は「ブロンディ」を紹介しました。

1974年にニューヨークで結成され、最初はパンク・バンドでしたが、

徐々に音楽性の幅を広げ、紅一点のボーカリスト、デボラ・ハリーの

セクシーな魅力を最大限に活かしたヒット曲をたくさん生み出しました。

1998年に15年ぶりに活動を再開し、現在も活動中です。

ホントに多くの名曲があるのですが、今回は1980年の大ヒット、

「ラプチュア」をご紹介しましょう。

ブロンディの代表曲の中でも、少し毛色の違うこのナンバー、

実は世界の音楽の歴史を変えた、最重要曲のひとつなのです。

あまり大きく語られないのが不思議でならないのですが、

これは白人ロック・ミュージシャンによる、世界初のラップ・ミュージックなんです。

まったくの偶然で、ほとんど同時期にイギリスでは、

クラッシュが「七人の偉人」という全編ラップの曲を発表しており、

この2曲が同時に世界初の称賛を受けるべきですが、

世界的なヒットの規模からすると、ブロンディの功績が

はるかに大きいのは間違いないでしょう。

ニューヨーク、ハーレムの黒人たちがラップ・ミュージックを発明したのが、

1970年後半と言われています。

そしてラップが初めてレコード化されたのが、

1979年、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズディライト」。

ここからわずか1年でブロンディとクラッシュはラップを取り入れているのですから、

その早さには驚かされます。

当時の黒人ラップはアンダーグラウンドなもので、

ごく一部のマニアにしか聴かれておらず、

当然ながらラジオなんかでもON AIRされるはずもありませんでした。

そういったことを考えると、当時、世界中の音楽ファンのほとんどは、

この曲でラップ初体験だったと言っても過言ではないでしょう。

今日は、「白人初のラップ」どころか、「世界初のラップ・ヒット」、

「ラプチュア」を紹介しました。

2月28日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「10cc」です。10ccと言えば、これはもう何と言っても

“ロックの歴史の中で最も美しいナンバーのひとつ”と称される、

不朽の名曲、1975年の世界的大ヒット「アイム・ノット・イン・ラヴ」が有名ですが、

この曲のイメージだけで彼らの全体像を捕えようとすると大間違いです。

もっと幅広い音楽性と批評性を持ったユニークな、

いや、はっきり言って変態的なバンドなんです。

1970年にイギリスで結成された4人組で、1972年にデビュー。

この曲からして、ビートルズの名曲「オー・ダーリン」を

徹底的に茶化したパロディでした。

その後も、とても美しいメロディのポップ・チューンかと思えば、

途中からいきなりオペラのような歌い方になったり、

キレイな曲調に似合わない、妙な音色の演奏が絡んだりと、

変な曲ばかり発表します。

ファンにとっては、そんな変態っぷりがたまらないのですが、

これには理由がありました。

4人のメンバーのうち、2人はポップ職人とも言える優れた作曲家で、

残る2人はユーモアとか毒気担当と言えるぶっ飛んだ人たち。

この正反対の特徴を持つ2組が緊張感を保ちながら同居していたのです。

そのせめぎあいの中で化学変化が起こり、

何とも言えぬ魅力が曲の中に宿った訳です。

まさしくバンド・マジックの神秘と言えます。

「アイム・ノット・イン・ラヴ」もよく聴くと構成や音の仕掛けはかなり変ですし、

美しいコーラスも狂気と紙一重なのが感じられます。

しかし、そんな危うい緊張関係が長く続くはずもなく、

1976年にポップ職人組とぶっ飛び組の2派に分裂。

どちらももう二度とマジックを生み出すことができぬまま失速してしまいます。

バンドには解散してしまわない程度の

対立関係があったほうがいいのかもしれませんね。

2月21日(木)の名盤は…

今日は大ヒット・ライヴ・アルバム「チープ・トリックat武道館」の

発売30周年記念として、この4月に同じ日本武道館で、

30年前とまったく同じセット・リストでライヴを行うと発表した、

チープ・トリックの、しかも日本が生んだライヴ名盤をご紹介しましょう。

彼らは1977年にデビューしますが、

最初の2枚のアルバムは本国アメリカでも、イギリスでも

さっぱり売れませんでした。

ところが世界中で唯一、日本だけでとても人気が出たのです。

“金髪の王子”、“黒髪のイケメン”、そしてこう言っては何ですが、

まぁ、“ただのおっさん”、と“ちょっとアブない人”という

4人のキャラが立っていたことと、ビートルズをルーツとする音楽性が、

日本人の好みに合ったのでしょう。

1978年4月に3rdアルバム発売ツアーで初来日を果たした彼らは、

想像を絶する日本のファンの熱烈な歓迎ぶりに驚き、感激し、

武道館公演を録音して日本だけで限定発売しました。

これが「チープ・トリックat武道館」です。

さて、ツアーを終え、帰国した彼らを待っていたのは、

3rdアルバムもアメリカではたいして売れなかったという現実でした。

けれども、ここで奇跡が起きます。ラジオのDJたちが、どこで手に入れたのか、

武道館音源をON AIRし始めたのです。これにリスナーが反応。

日本からの逆輸入盤が、通常の2倍以上の値段にも関わらず、

飛ぶように売れ出します。

翌年1979年2月には正式にアメリカ盤も発売され、

最終的に300万枚のビッグ・ヒットとなったのです。

これを機に、過去の作品も火がつき、彼らはトップ・バンドに成り上がりました。

例えばクイーンも日本で最初に売れたわけですが、

チープ・トリックのように日本人が本国のファンにその良さを教え、

日本のファンと共に成長したバンドは他にありません。

「at武道館」というアルバムを日本のロック・ファンは誇りに思ってもいいでしょう。

2月14日(木)の名盤は…

今日はELOことエレクトリック・ライト・オーケストラを紹介しました。

1971年にイギリスで結成されたELOは、

その名の通りチェロ2本とヴァイオリンの3名の弦楽奏者をメンバーに加えた

“世界で最小のオーケストラ”と呼ばれたロック・バンド゙です。

最初のうちはシンフォニックでプログレッシヴな大作志向でしたが、

2代目リーダー、ジェフ・リンのポップな音楽性が

どんどん前面に押し出されるようになって、

本国イギリスはもちろん、アメリカや日本でもヒットを連発します。

このジェフ・リンという人、60年代ポップスや、

何と言ってもビートルズの影響が大きいなんていうものではなく、

“研究家”と言っても過言ではないほど。

その情熱を本家にも認められて、ジョージ・ハリスンのアルバムや、

“ビートルズ25年ぶりの新曲”と話題になった

「フリー・アズ・ア・バード」のプロデュースを任せられています。

今日紹介した”ホレスの日記”は、彼らがセールス的に絶頂期だった

1979年の全英トップ10ヒットです。グズで冴えないモテない男が、

一目惚れした女の子に、ありったけの勇気を振りしぼって告白し、

想いが叶うというハッピーなラヴ・ソングです。

現実には歌のようにうまくいくとは限りませんが、

うまくいかせるためには勇気が必要なのは確かです。

この歌では彼がウジウジしている時、こんな天の声が聞こえてきます。

「恐がらないで、ドアをノックしてごらん。これは君の人生なのです。

さあ、自分の力で、しっかり大地を踏みしめて。

そうすれば必ず素晴らしい人生が待っています。

君にならできる。さあ、がんばって。」

今日はValentine's Day…♪

2月7日(木)の名盤は…

今日は、アメリカの新人歌手オーディション番組で、

審査員としても見かける、ある女性アーティストを紹介しました。

エントリーしている素人さんたちが歌っている間、

ずっとノリノリで踊っていたくせに、感想を求められると

「予選の時からあなたのファンだけど、今日の歌は最低だったわ」

などと言い放つ、やけに辛口で踊りが上手くて思わず目をひくこの人、

「ポーラ・アブドゥル」です。

ロサンゼルス出身の彼女は子どもの頃からダンスが得意で、

18才で地元のNBA名門チーム、レイカーズのチアガールへ入団。

半年後には最年少にして振り付け担当に昇格する天才でした。

ある日、試合を観戦していたジャクソンズに認められ、

「僕たちの新曲の振り付けをお願いします。」と頼まれます。

「バックで踊ってくれ」ではなく、

「ダンスを考えて、そして教えてくれ」と言ったんです。

彼女はフランス、カナダ、ブラジルなどのルーツを持っていますが、

ブラックではありません。

それがブラックの、しかもダンスが売りのジャクソン兄弟から

頭を下げられたのだから、快挙でしょう。

これを機にプロの振り付け師となった彼女の名前を一躍有名にしたのは、

ジャクソンズの妹であるジャネット・ジャクソンの一連のヒット曲でした。

あのジャネットのダンスの先生というだけでもすごいのに、歌も上手いという、

天は二物を与えたのです。・・・という訳で、即、歌手デビュー。

1988年から92年にかけて6曲の全米No.1ヒットを獲得しました。

ポーラ・アブドゥルの凄さ、お分かりいただけたでしょうか?

これだけの実績のある人なので、

オーディション番組で辛口審査だったとしても文句は言えませんよね。

20年経っても由美かおる並に体型も変わらず、さらにダンスも上手い。

ホントに凄い人ですね…

1月31日(木)の名盤は…

今日は1970年代にヒットを連発し、ロックの殿堂入りを果たしている

アメリカの大御所、スティーリー・ダンを紹介します。

このバンド、というかユニット、はっきり言ってクレイジーなんです。

デビュー当時はジャズっぽい味付けが個性的ではあったものの、

普通のバンドでしたが、リーダーのドナルド・フェイゲンは大変気難しく、

次々にメンバーのクビを切り、1976年頃には彼とウォルター・ベッカーの

2人だけになります。ここからやりたい放題が始まりました。

例えば、「ここに誰々風のギターが欲しいなー」と考えた時、

普通ならその誰々さんと同じ楽器を調達して、

特徴をマネて似た音を作り出すのがそれまでの方法でしたが、

彼らは「面倒臭いから本人に弾いてもらおうぜ。

どうせ俺達2人しかいないし、金ならあるし」というまさに目からウロコの

方法論革命で、数十名もの超一流達を迎えて制作したのが、

1977年のアルバム「エイジャ」でした。

思うに、これって現在のサンプリングの手法と非常に近いですね。

言っておきますが、Hip Hop誕生以前の話ですよ。

さすがにこれは完成度が高く、ロックの金字塔と呼ばれる名盤ですが、

その裏では、ある大物に何十回も同じフレーズを引かせた挙句に

採用せず、激怒させたとか、一人でも高額なギャラの一流ミュージシャンを

10人ほど呼んで、たった数小節のソロを弾かせ、結局その当時キャリア的に

最も格下だった人のテイクに決定したとか、

鬼のような逸話が山ほどあります。

そして、この手法をさらに徹底したのが、1980年の「ガウチョ」です。

前作は完璧でしたが、こちらは過剰に完璧。

息苦しいほどの極度の緊張を聴き手に迫ります。

極度の完ぺき主義者の狂気、金を湯水の如くつかう狂気、

そしてボツにされた大物たちの怨念(笑)・・・と、

ある意味、「暴力よりもこわい恐怖が、ぱっと聴いた感じでは、

爽やかでオシャレなサウンドの奥に透けて見える。」

そんな完全に“イってしまった”名盤がこれです。

1月24日(木)の名盤は…

今日は1980年代後期から90年代にかけて、たくさんのヒットを生み出し、

現在ももちろん第一線で活躍する女性シンガー・ソングライター、

スザンヌ・ヴェガをご紹介しましょう。

彼女がメジャー・デビューした1985年頃というのは、

パンクから派生したニュー・ウェイヴ全盛期で、

1970年代に大流行したシンガー・ソングライターにとっては、

居心地のいいものではありませんでした。

マドンナやシンディ・ローパーなどは、自作自演という意味では

立派にシンガー・ソングライターな訳ですが、

彼女たちは、もっと広いいみでのポップ・スターという呼称がぴったりですし、

ここでは弾き語りに近いシンプルなサウンドで、

温かみのある歌を聴かせるスタイルのことを指しています。

ニュー・ウェイヴの時代に、そういったスタイルは、

確かに古臭く感じられたのは事実で、それ以上に70年代からの

生き残り組のシンガー・ソングライター達が、変に時代を意識して

エレクトロニクスを取り入れた作品の多くが、ダサく感じられたのが、

自分で自分の首をしめているようでした。

そんな時代に現れたスザンヌ・ヴェガは、

60年代フォークから70年代シンガー・ソングライターの

古き良き音楽の伝統をしっかり感じさせながらも、

自然体で確実に新しい世代を感じさせてくれたのです。

ニュー・ウェイヴを自然に経過したシンガー・ソングライターサウンド。

言葉にすればそれだけですが、これは70年代組には

絶対に作ることができない音楽だったのです。

彼女が80年代シンガー・ソングライター不毛の時代を、

ほぼ一人で埋めてくれなかったら、90年代のアラニス・モリセットも、

シェリル・クロウもフィオナ・アップルも、

今のようなスタイルで登場することはなかったかもしれません。

今日紹介した「ルカ」という曲は、彼女を一躍知らしめた1987年の大ヒット。

実は幼児虐待を歌ったシリアスなナンバーだという事も覚えておいて下さい。

1月17日(木)の名盤は…

13年前の今日、1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。

今日は、当時被災地で生まれた

「満月の夕(ゆうべ)」という歌を紹介しました。

大阪在住のロック・バンド、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬は当時、

すぐにメンバーを連れて神戸へ行き、ボランティア作業をする傍ら、

「歌でメシを食っている人間として、皆さんに娯楽を提供せねば」と、

避難所でライブを始めました。

そんなある日、盟友とも言えるヒートウェイヴの山口洋を

東京から連れてきます。悲惨な光景の中で、それでも復興に向けて

たくましく生きる人々に言葉を失った山口さんは、

中川さんと共に曲を書き始めましたが、途中まで出来たところで

一時帰京した山口さんのもとに中川さんから

「あの歌、もう完成して歌いよるで」と連絡が入ります。

被災者との生の交流の中で生まれたこの歌こそ「満月の夕」の原曲でした。

自身が起きた日も満月、被災者と共に焚き火を囲んで歌ったのも満月。

そんな複雑な思いを抱きながらながめる月に、

再生への希望を込めたこの歌には、

被災地ならではの生々しい特徴がありました。

まず、電気が復旧していないので、三線に和太鼓、アコーディオンといった、

電気なしで一番大きな音を出せるチンドン屋の編成で演奏すること。

そして、一番の生活弱者であるお年寄りに親しみやすく、

踊りやすい(とにかく寒いので、踊らせて暖をとる必要があったのです)

民謡/邦楽調であることです。

さて、この歌を聴いたヒートウェイヴの山口さんは、

「被災地と密に交流していない自分に、この歌を歌うことはできない」と、

震災をテレビで見つめることしかなかった立場からの視点で、

歌詞をほぼ全面的に書き変え、電機も普通に使える立場から、

自分達流のロック・アレンジで歌いました。

ここにメロディだけが同じで、まったく異なる

2つの「満月の夕」という歌が誕生したのです。

中川さんのバージョンが“当事者による復興の応援歌”で、

山口さんのバージョンは“遠くからの祈りの歌”と言えるかもしれません。

同じ日に発売されたこの2曲でしたが、さっぱり売れませんでした。

というのも、最もこの歌を必要とする被災者達は、

CDを買う余裕なんてあるはずもなかったのです。

でも、この年だけで70回以上行われた避難所ライヴのおかげで、

被災者のみならず、神戸全域で誰もが知っているほど浸透したのでした。

それから1年ほどたった時、中川さんの友人が神戸を歩いていると、

子どもがこの歌を歌いながら、「おっちゃん、この歌知ってる?

これなぁ、俺らの歌やねん」と言ったそうです。

それだけではありません。多くの歌手がこの歌をカバーしています。

その中にはメンバー全員被災者で、当時中学生で避難所ライブを

観ていたガガガSPもいます。さらに、中越で、釧路で、宮城で、能登で、

あるいは9.11やアフガン、東ティモールで、

天災や戦災が起こる度に「満月の夕」が歌われるようにさえなりました。

阪神大震災で生まれた歌が、いまや全ての焼け跡から再生するための

希望の歌として歌い継がれています。

1月10日(木)の名盤は…

今日は1980年代中期から後期に大ブームとなった、

ブリティッシュ・ホワイト・ソウルについて紹介しました。

これは、本来アメリカの黒人のものであるソウル・ミュージックの要素を

大胆に取り入れたイギリス白人による音楽です。

まぁ、もともと白人ロックは黒人音楽の影響を受け続けて進化してきた

歴史がありますが、この時代の動きは「影響を受けた」という程度ではなく、

ある意味で模倣とも言えるぐらい、そのまんまストレートにソウル音楽へ

アプローチしたものが一気に登場し、それぞれにヒットしたのです。

それはなぜか?と言うと…

イギリスでは1970年代末にパンクの嵐が巻き起こり、

続くニュー・ウェイヴの波が、1980年代前半まで続きます。

これらは暴力的だったり、無機質で冷たかったり、混沌としていたり、

あまり明るいものではありませんでした。

5年以上続いた、そういった音楽シーンに疲れた人たちが、

ソウル・ミュージックのぬくもりや、ポジティヴさに癒しを求めた、

というのが真相ではないでしょうか。

きっかけは1982年~83年にヒットしたカルチャー・クラブとワム!ですが、

あんなに黒っぽかったにも関わらず、彼らはアイドルの側面もあったため、

音楽的に深く取りざたされることは少なかったのです。

スタイル・カウンシル、ブロウ・モンキーズ、シンプリー・レッド、ワーキング・ウィーク、

そしてスウィング・アウト・シスターなどが揃った1986年から87年が

ブームの頂点だったと思われます。

まったくの新人もいましたが、それらの多くはパンク、ニュー・ウェイヴからの

転向組だったことも面白いですね。

聴き手だけでなく、演奏側も疲れていたんでしょうね。

今日は日本で特に人気の高いこの人たち「スウィング・アウト・シスター」の

1986年の大ヒットナンバー「ブレイクアウト」をお送りしました。

ちなみに彼らも硬派なニュー・ウェイヴからの転向組です。

1月3日(木)の名盤は

今日は新年の1回目ということで、

“デビュー・アルバムの1曲目が最高にカッコいい名盤”を紹介しました。

本来はアルバムの前にシングルでデビューするのが普通ですから、

厳密に言えば、デビュー作の1曲目がそのアーティストの

初お披露目ではないのでしょうが、アルバムしか買わないファンもいますし、

後々まで歴史に残るという意味では、

こちらのほうがより重要と言えるかもしれません。

そうやって考えてみると、例えばビートルズ。

「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」のカウントだけで、

「ここから歴史が変わったんだなー」という生命力が感じられます。

そしてクイーン、ツェッペリンあたりもかなりカッコいいです。

ディープ・パープルの「アンド・ジ・アドレス」、チープ・トリックの「ホト・ラヴ」は、

アルバム全体の出来の良さが1曲だけで決定されるほどの名曲だと思います。

パンク・バンドは「ノリ一発」みたいなところがあるので、

1曲目は秀逸なものが多いです。

そんな中でも、1曲だけ、となれば、この曲はどうでしょうか?

これはまずCD屋さんでジャケットを見て一撃、

そして聴いてさらに一撃、とにかくインパクトは最強。

これが史上最高、というつもりはありませんが、

最高峰のひとつであることは間違いないと思います。

それは…『キング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man」』。

12月27日(木)の名盤は

今日が2007年最後のこのコーナーになりますね。

あんまり明るい話題の少なかった2007年だったように思いますが、

くよくよしないで、楽しく!今日はボビー・マクファーリンの

「ドント・ウォリー・ビー・ハッピー」を紹介しました。

皆さん、ア・カペラというのはご存知だと思います。

楽器の伴奏なしに歌うスタイルのことですが、

これは基本的に言葉に重点を置いた、歌とコーラス世界です。

これを一歩進めて、言葉を離れて、声で楽器の役割まで演じてしまうのが、

ヴォイス・インストゥルメントと呼ばれるものです。

最近のヒップホップやR&B系のグループには

「ヴォイパ」=「ヴォイス・パーカッション」という、声でビートを出す人が

いる場合も多いですが、これもこの一種です。

それをさらにもう一歩発展させて、歌とか楽器とかを超越して、

あらゆる表現を声だけで構築する「ヴォイス・パフォーマー」の

第一人者と呼ばれるのが、このボビー・マクファーリンです。

もともとは前衛ジャズの分野から出てきた人で、

初めはもっと高尚で難解な感じでしたが、

1988年発表の4作目のアルバムでは、ロックの有名曲を

声だけでカバーする遊び心を見せ、自作曲もグッとポップで

親しみやすいものになり、それまでのどちらかというと技術自慢とも

言えなくもなかった作風から大胆に変身、

その中の1曲が底抜けに明るいこの曲で、

映画「カクテル」のサントラにも使用され、全米No.1の大ヒットを記録しました。

もちろん、口笛を含めて、すべての音は彼一人のヴォイスによるものです。

12月20日の名盤は…

今日は、数あるクリスマスソングの中でもアイルランドのバンド、

ザ・ポーグス、1987年の大ヒット曲「ニューヨークの夢」を紹介しました。

歌の内容を説明するなんてのは本当にヤボですが、

それでも伝えずにはいられないのがこの曲で歌われる物語なんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

物語は酔っ払って牢屋に入れられた初老の男の回想で始まります。

歌の1番では、若い頃、妻と二人で夢と希望に胸を膨らませて

ニューヨークへ移住した当時の幸せな姿が、

2番では結局何ひとつ夢は叶わず、落ちぶれた生活の中で、

お互い口汚く罵りあっている、年老いた現在が歌われます。

妻の役をカースティ・マッコールという人が

見事に客演しているのも聴きどころです。

そして3番で老夫婦は語り合います。

男が「こんなはずじゃなかったのに」と言うと、

妻は「あなたは私の夢を持っていったきりなのよ」と言います。

すると男は「それは今でも大事に預かっているよ。だから一緒にいておくれ。

俺は君なしでは、もう夢を見ることさえできないんだ」。

喧嘩しながらも、お互いを心の底から必要としあっている、

と言えば聞こえはいいですが、相手の支えがなければ

一人では生きてさえいけない悲惨な姿とも言えます。

でも強い絆が感じられます。

秀逸なのはコーラスの部分です。こういう一節があります。

“牢屋の外からニューヨーク警察合唱隊が、

アイルランドの有名な民謡「ゴールウェイ湾」を歌うのが聴こえる。

「ああ、もうクリスマスなんだな・・・」”。

この一節で初めて、この老人も、そして合唱隊の多くも

アイルランド移民であることが分かる仕掛けになっています。

アイルランドからアメリカへの移民は昔から非常の多く、

その大半は生活苦から移民せざるを得なかった人々なんですね。

れはそんな移民の歴史、夫婦愛、圧倒的多数の負け組みの

人生といったものを4分間に詰め込んだ、救いようはないけど、

真実と温かい眼差しに溢れた、感動的な名盤です。

ジョン・レノンや、ワム!や、バンド・エイドを押さえて、

“イギリス人が好きなクリスマスソングNo.1”に選出されたのも当然な、

エバーグリーンな1曲と言えるでしょう。

12月13日(木)の名盤は

今日は1984年、イギリスで大ヒットした、バンド・エイドの

「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」を紹介しました。

クリスマス・コンピCDには必ず入っている有名な曲ですが、

この曲の前後に存在する物語を紹介します。

社会派ロック・バンド゙、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフは、

飢餓で苦しむエチオピア難民の惨状をテレビで見て、社会派の血が騒ぎ、

友人であるウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと共に曲を書き始めます。

そのうち現実を社会に知らしめることも大切ながら、

それ以上に一刻も早くアフリカへお金を送ることが重要だと考え、

これをチャリティ・レコードにしようと決めます。

ならば爆発的メガ・セールスを記録しなければ意味がありません。

そこで音楽仲間に片っ端から声を書け、その結果、

U2、フィル・コリンズ、ワム!、カルチャー・クラブ、ポール・ウェラー、

デュラン・デュラン、スティングといったイギリスを中心とした

トップスターがおよそ40名も参加。(一部アメリカ勢も参加していました。)

バンド・エイド名義で発売したこの曲は、思惑通り超大ヒットを記録しました。

参加者は全員ノー・ギャラ。ボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロも印税放棄。

レコード会社も必要経費だけで1円も利益を取らず、

その額は莫大なものでした。奇跡は起きたのです。確かに。

しかしこれに続いたアメリカ勢によるUSA・フォー・アフリカや

ライヴ・エイドは完全にビジネスの匂いが漂ったことから、

エイド・ブームを作ったバンド・エイドに批判が集まるようになったのです。

しかも、アフリカへ送った救援物資は一部の裕福層が横取りし、

本当に必要としている貧困層へはまったく届かず、

チャリティそのものが失敗に終わったことで、急激に夢は断ち切られました。

けれども、一瞬の夢だったのかもしれないけれど、

ミュージシャンとレコード会社、そして我々聴き手の三位一体となった

奇跡はあの時確かに存在したのです。

12月6日の名盤は

今年も12月8日が近づいてきました。

今日はジョン・レノンを紹介しました。

ジョン・レノンついては説明するまでもないかもしれませんね。ただ、

1980年12月8日、射殺されるという形で衝撃的な死を遂げたせいか、

彼のことを“愛と平和の殉教者”とだけ思っている人が多くはないでしょうか。

もちろん、そういう側面もありました。

でも、そういった行動や楽曲は、レノンの活動の一部でしかなかったのです。

ラジオで流れるレノンの曲と言えば「イマジン」、

「ウーマン」、「ハッピー・クリスマス」といった曲ばかり。

生前唯一の全米No.1ヒット「真夜中を突っ走れ」ですら、

ほとんどOAされる事がありません。優しく美しいバラードばかり。

これは我々ラジオ局にも問題があるのかもしれませんね。

激しいシャウトのロックン・ロール・ナンバーはほとんどOAされません。

しかしながらレノンの本質はビートルズ時代からソロ時代まで、

一貫してロックン・ロールなんです。世界で一番クレイジーな

ロックン・ローラーだったからこそのビートルズの人気であり、

40年以上続く、変わることのない高い評価なのです。

ロック・ファンの心臓をワシ掴みにしたヒーローだったからこそ、

ラヴ&ピースのメッセージが

若者に受け入れられたのだということを忘れてはなりません。

今日お届けした曲は、

麻薬の禁断症状を歌ったヘヴィなロック・ナンバーですが、

喉が張り裂けんばかりのシャウト、これこそレノンの真骨頂です。

11月29日(木)の名盤は

今日は、日本でもファンの多い「ボズ・スキャッグス」を紹介しました。

1970年代後半から80年代頭にかけて、

世界中で大ブームを巻き起こしたAORと呼ばれる音楽の

先駆者にして代表的存在、それがボズ・スキャッグスです。

そのAORとは?1950年代に誕生し、60年代に定着したロックミュージックは、

ある意味若者の音楽でした。当時ロックに親しんできた人々も

70年代後半になると30代に突入し、より激しく、うるさく、

大音量になっていくロックについていけなくなってきました。

そんな人々を対象にした、やかましくなく、耳障りではないものの、

子ども向けのポップスではなく、一応ロックを聴いている気にさせてくれる、

大人の為の新しいロックが生まれました。

それが、アダルト・オリエンティッド・ロック、AORと呼ばれるものです。

ただ「心地よいロック」というだけならば、以前からあったのですが、

AORがそれらと大きく異なっていたのは、時代を反映した都会風味というか、

洗練されたおしゃれさ、リッチでゴージャスなフィーリングが加えられたことです。

そしてそのAORを最初に定義づけたアルバムが、

同じ1976年に発表された、ネッド・ドヒニーの「ハード・キャンディ」と、

ボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」の2枚と言われています。

この2枚奇しくもジャケット写真を同じモシャ・ブラカという人が手がけていて、

サウンドとともに視覚的イメージでもAORを決定づけています。

11月22日の名盤は

今週はサザン・ソウル/ディープ・ソウルについて紹介しました。

サザン・ソウルというのは、ごく簡単に言ってしまうと、

アメリカ南部から生まれた、ゴスペルやブルースに直結した、

いわゆる「濃~い」ソウル音楽のことで、必ずしも南部出身ではない

場合もあることから、ディープ・ソウルとも呼ばれています。

有名なところでは、1960年代のオーティス・レディングなどがいます。

全身を使って声を振り絞って歌う中に、哀しみがじんわりと滲み出てくる、

そんなイメージです。

こういった音楽は1960年代から70年代前半までは、

とても人気があったのですが、時代の流れとともに、だんだんと衰退、

70年代後半には、一部の愛好家たちを除いて、

メインストリームからは姿を消してしまいます。

まぁ、お酒でもタバコでも、ライフ・スタイルから人間関係、

さらには人間そのものが、ライトでマイルドな方面に向かっていく時代には、

そんなヘヴィで濃い歌は、ずいぶんと野暮ったく聴こえたのでしょう。

さらにはソウルの主な購買層である黒人たちにとっては、

そんなディープな歌は、苦しく貧しかった奴隷時代を思い出すということで、

特に社会進出を果たした都会の裕福な黒人層からは

拒絶されることもあったようです。

そんな中、1983年にジェイ・ブラックフットという人の「タクシー」という曲が

思いがけずヒットしました。

60年代からソウル・チルドレンというグループで多くのヒットを放った

彼のソロ第1弾で、サウンドこそは80年代風に洗練されているものの、

歌声はまさしくディープそのものでした。

若年層や白人にも受け入れられたこの曲のヒットが、

「黒人ならではのディープな感覚というものは、

いつの時代でもコンテンポラリーたりうる」と証明してみせました。

そしてその感覚はヒップホップ以降にも確実に息づいています。

11月15日の名盤は

一風変わった珍しい曲の名盤を紹介しました。

イギリスにクリス・スペディングというギタリストがいます。

一般的には、それほど有名ではないかもしれませんが、

知らず知らずのうちにこの人のギターの音を耳にしている

音楽ファンはとても多いんです。1960年代から現在に至るまで、

スタジオミュージシャンとして、

おそらく数千曲のセッションに参加しているのです。

ロキシー・ミュージックには正式メンバーとして一時期在籍していましたし、

セックス・ピストルズのレコードで実際にギターを弾いたのは、

この人という話もあります。ロックを中心としながらも、

ジャズからロカビリーまで何でもこなせる天才職人ギタリストとして、

超売れっ子な訳ですが、そうなると当然のように

自分名義の活動をしたくなるのが人情ってものでしょう。

そんなソロ活動の中の1曲が、1976年にリリースした、

この「ギター・ジャンボリー」です。なんのことはない、

当時の人気ギタリストのものまねをメドレーでつなげたという、

安直な企画のノベルティ・ソングです。

本人としてもお遊びのつもりだったでしょうし、録音状態もあまり良くなく、

第一この人の技量をもってすれば、

ギターもアンプも本人と同じ物をそろえて、完璧にコピーすることが

できるであろうに、自分のギター1本で、適当にやった感が伺えます。

恐らく、こんなの朝飯前で作ったのでしょう。

ところが、これが売れたんです。

今なお、彼のソロ名義で、これを超えるヒットはありません。

本気で心血を注いで作ったものではないものが、

自分の代表作と言われてしまう不幸。

思うようにはうまくいかないのが人生、ということなのでしょうか。

でもロックファンが聴けば、間違いなく楽しめる1曲です。

11月8日の名盤は…

今日は黒人女性ボーカル・グループ「ポインター・シスターズ」を

紹介しました。グループ名の通り、カリフォルニア出身の、

ルース、アニータ、ボニー、ジューンのポインター四姉妹グループ。

両親が牧師という環境で、子どもの頃からゴスペルを歌っていましたが、

少しずつ世俗の歌も取り入れるようになり、1973年にアルバム・デビュー。

この当時の彼女たちは、ソウルだけでなく、

戦前のノスタルジックなスタンダード・ナンバーから

ブルース、さらにはジャズ風あり、カントリー調ありと、

様々な要素を混ぜ合わせた音楽性が特徴で、ヒット曲も多く出しましたが、

ある曲はポップ・チャートで、別の曲はソウル・チャートでヒットし、

さらには別の曲で、黒人として初めてグラミー賞のカントリー部門を

獲得してしまうなど、ある意味ではつかみどころのない、

どっちつかずのイメージが強かったのも事実です。

そんな時、三女のボニーがソロとして独立してしまいます。

残された3人は引退も考えましたが、

大物白人プロデューサー、リチャード・ペリーが新会社を設立。

その第一弾アーティストとして彼女たちを迎え入れたのです。

ペリー曰く「黒人音楽とロックの架け橋になるようなものを作るには、

彼女たちが最適」ということで、吹っ切れた彼女たちは、

サウンド的にはよりロック色を強め、

歌はゴスペル出身らしいソウル色を全開にして、

それまでありそうでなかった独自の音楽を作り出し、

4人組だった時よりもはるかに大きなスケールの成功を手にしました。

今日紹介する曲は、1981年にブラック・チャートで7位、

ポップ・チャートで2位を記録し、ミリオン・セラーになった大ヒット曲。

このチャートのバランスこそが、

彼女たちとペリーが目指したものに他ならないものなのでしょう。

11月1日(木)の名盤は

今日は「ビー・ジーズ」の哀愁のトラジディを紹介しました。

ビー・ジーズはイギリス生まれのイギリス人、バリー、ロビン、モーリスの

ギブ3兄弟によるボーカル・グループとして1963年に

移住先のオーストラリアでデビュー。多くのヒットを残し、

1967年にイギリスへ戻り、ワールドワイドな活動が始まります。

ここから1970年代初頭にかけて20曲近いヒットを連発。

イギリスのみならず、アメリカやここ日本でも大きな人気を獲得しましたが、

1972年から73年頃になると勢いにも翳りが見え始め、

心機一転、彼らはアメリカへ活動の拠点を移すことを決意します。

ここで大物プロデューサー、アリフ・マーディンと出会い、

ファルセットで歌うことと、当時最先端であったディスコ・サウンドへの

挑戦を指示されます。それまでのキャリアと実績を考えると、

屈辱とも思えるこの申し出を受け入れた彼らは、

まさに別のグループに生まれ変わって、

第2期黄金時代を築き上げることとなったのです。

1975年から79年までに6連続を含む、8曲の全米No.1ヒットと、

この時期のビー・ジーズは手のつけようがないほどの怪物ぶりでした。

まったく違う芸風で2度の黄金期を持ち、イギリス、アメリカ、オーストラリア、

それぞれのファンは、みんな自分達のグループ゚だと思っている、

こんなお化けみたいなスーパースターは他にありません。

10月25日(木)の名盤は

今日は「リトル・リヴァー・バンド」を紹介しました。

最近では、JET、サヴェージ・ガーデン、カイリー・ミノーグ等の活躍で、

オーストラリアの音楽シーンというのも、

イギリス、アメリカに勝るとも劣らないほど高いレベルだということが

知られるようになりましたが、

1970年代までは情報がうまく伝わらなかったこともあって、

ほとんど話題になることはありませんでした。

最初にオーストラリア出身アーティストとして脚光を浴びたのは、

1960年代のビー・ジーズ、70年代初頭のオリヴィア・ニュートン・ジョン、

ですがこの2組はどちらもイギリス人のオーストラリア移住者でした。

その後、AC/DCが登場しますが、彼らの場合は世界的な成功とほぼ同時に

活動の拠点をイギリスへ移していましたし、

「オーストラリアのバンド」というより

「ハードロックのバンド」のイメージが強すぎました。

そんな中、初めてオーストラリアを拠点にして、世界的な成功をおさめ、

オーストラリアのレベルの高さをアピールしたのが、

1975年にデビューしたリトル・リヴァー・バンドでした。

もともとイギリス領だったこともあって、イギリスの影響が大きく、

まずはイギリスで、というパターンが多かったオーストラリア勢の中で、

アメリカの、とりわけ西海岸の影響が色濃く、

始めから全米進出を狙った彼らの方法は正解で、

デビュー直後からヒットを連発。

爽やかなコーラスを生かしたサウンドはアメリカン以上に

アメリカンとの評価も獲得しました。

最大のヒットは1978年、全米3位のこの曲で、

彼らはついに念願の全米制覇には及びませんでしたが、

この後のエア・サプライ、イン・エクセス、メン・アット・ワークといった

オーストラリア勢が1980年代に全米を制することができたのは、

リトル・リヴァー・バンドが道を開いてくれたおかげでしょう。

10月18日(木)の名盤は

今週はプリテンダーズを紹介しました。

21世紀の現時点で、音楽的な質の高さと、それに伴う人気と実績、

それから後輩たちへの影響力の大きさや、

ルックスも含めた生き方そのもののカッコ良さで、

“アネゴ”として君臨するのが、アメリカではジョーン・ジェット、

イギリスではこのプリテンダーズのフロント・ウーマン、

クリッシー・ハインド、ということになります。

さてこのクリッシー姉さん、もともとはアメリカ人ですが、

イギリスに渡って音楽記者として働いていましたが、

どうしても自分で音楽がやりたくなり、プリテンダーズを結成。

1979年にデビュー。姉さん以外の3人のメンバーは全員男性。

キレ味の鋭い、ソリッドなR&Rサウンドの中にも、

60年代風のノスタルジックな感覚と、あくまでもポップでキャッチーな

メロディが同居した音楽性で最初からヒットを連発、

あっという間にイギリスのトップ・バンドに上り詰めました。

ところが、2枚のアルバムを大ヒットさせたあたりから、

精神的・体力的に疲れたメンバー達はドラッグに手を出し始め、

1982年と翌年83年に相次いで2人のメンバーを亡くしてしまいました。

失意と絶望の中、バンド存続を悩んだクリッシーは、

ちょうど「ハイハイ」を覚えた我が娘を見て、進むことを決断。

新メンバーを集めて制作、1984年に発表された3rdアルバムには、

娘の姿と新バンドととして一から出直すという意味を重ねて、

「Learning to Crawl(ハイハイを覚える)」と名付けられました。

結婚、出産、そして相次ぐメンバーの死という人生の明暗を乗り越えて、

「ハイハイ」から再始動したそのサウンドは、

以前より力強く、そして優しく強くたおやかで、感動的でさえあります。

10月11日(木)の名盤は

今日は、80年代から90年代にかけて多くのヒット曲をリリースする

「アメリカの国民的バンド」といった感じで親しまれる、

「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」を紹介しました。

1980年にヴォーカルのヒューイ・ルイスを中心に

サンフランシスコで結成された6人組ですが、ルイスともう一人は

それ以前にクローヴァーというバンドを組んでいて、イギリスへ渡り、

2年ほどパブ・ロック(イギリスの酒場のバー・バンドと思ってください)を

経験しています。その時に知り合った縁で、クローヴァーは

エルヴィス・コステロのデビューアルバムのバックを全面的に担当しています。

しかしそれで脚光をあびることもなく、アメリカへ戻って新たに結成したのが、

ニュースだった訳です。基本的にそんなバー・バンド゙の流れを汲むだけに、

古いロックン・ロールやリズム&ブルース、カントリーなどに根ざした、

派手さのない地味な音楽性のニュースですが、

前身のクローヴァーと比べると、派手なシンセサイザーを導入し、

全体的なアレンジをコンテンポラリーな、いかにもアメリカ好みな

明るく陽気な感じにしただけで、火がついてしまうのだから、音楽は面白い。

10月4日(木)の名盤は

今日は「イエロー・マジック・オーケストラ」「YMO」をピック・アップ。

1978年、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人で結成されたYMO。

「シンセサイザーとコンピューーターを駆使したテクノ・ポップの世界的な先駆者」と

言われますが、一言だけでは片付けられない不思議さがあります。

わずか5年の活動で見事に音楽性が変化していて、

純粋にテクノ・ポップと呼べるのは初期だけですし、

それでさえ機械演奏と同時に、リズムと主メロは自らの手弾きがメインで、

よくわからなくなります。

細野晴臣と高橋幸宏は、YMO以前からロック・スターの地位を確立、

当時の日本で最高のベーシストであり、ドラマーでした。

坂本龍一は一般的には無名ながら、クラシックを本格的に学んだ

敏腕スタジオ・ミュージシャンでした。そんな超一流のプレイヤー3人が、

コンピューターを使って、世間を相手に思い切り真剣に遊んだだけ

なのかもしれません。お笑い芸人と絡んだり、3人自ら漫才をやったりした

中期から後期になると、逆に音楽はどんどんシリアスになっていきます。

YMOは音楽のみならず、ファッションやライフ・スタイルを巻き込んだ風俗で、

YMOというひとつのジャンルだったのかもしれません。

5年間を風のように過ぎ去った、ジョークとフェイクに満ち溢れたYMOワールド。

このジャンルを通過した人達が、

90年代以降の様々な分野でも活躍しています。

9月27日の名盤は

今日は、秋の気配が感じられるようになった今の季節にぴったりの

女性ボーカル名盤「カーリー・サイモン」をピック・アップしました。

現在も現役で活動する彼女は、ボブ・ディランのバック・コーラスなどで

活動した後、1971年にデビュー。当時のアメリカは、

シンガー・ソングライター・ブームが盛り上がりつつある中、

その女性先駆者的な存在としてヒット曲をたくさん生み出しました。

そして人気がどんどん上昇してきた1972年、

同じシンガー・ソングライター仲間で、以前からお互い交流のあった

ジェイムス・テイラーと結婚。その直後に発表したのが、

3rdアルバム「ノー・シークレッツ」と、シングル「うつろな愛」です。

この曲は1973年1月、彼女にとって初めての全米No.1ヒットを記録した、

代表作のひとつで、歌手としてもソングライターとしても十分に実力が開花し、

その上で結婚という私生活の充実が加わり、

彼女の持ち味である伸び伸びとした大らかな魅力が発揮されています。

話題となったのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが、

一発でそれと分かる声でコーラス参加していること。

おしどり夫婦として知られたカーリー・サイモンとジェイムス・テイラー。

その後10年ほどで別れております・・・.。

9月20日(木)の名盤は

今日は「レッド・ツェッペリン」を紹介しました。

先週発表されたニュースで、生きているオリジナル・メンバー3人と、

1980年に亡くなったドラマーのジョン・ボーナムの代わりに

実の息子ジェイソンを加えて再結成、

11月に一夜限りの復活を果たすというものがありました。

ロックが生まれて50年、偉大なバンドを10組選ぶなら…

ディープ・パープルもクイーンもエアロスミスもキッスも入らないけど、

ビートルズとストーンズとツェッペリンは入る!程のバンドではないでしょうか?

今日は1976年リリースにリリースされた、

今から31年も前のものとは思えない、ロックの最高峰のひとつ

「アキレス最後の戦い」をお届けしました。

9月13日(木)の名盤は

今日は1980年代に、本国イギリスはもちろん、アメリカや日本でも

とても人気の高かったハワード・ジョーンズを紹介しました。

彼が登場した1982年から83年当時というのは、ニュー・ウェイヴ全盛期、

特にエレクトロニクスを多用したテクノ・ポップ、エレクトロ・ポップと呼ばれる

音楽が大人気で、そういったスタイルの音楽が得意なイギリス勢が市場を席巻、

アメリカのチャートでさえイギリス勢が上位を独占するという、

いわゆる「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」といわれた時期でした。

(ちなみに第1次はビートルズなどが活躍した1960年代中期)。

そんな中、1983年にデビューしたハワード・ジョーンズも

シンセサイザーを駆使して、ほとんどすべてのサウンドを、

たった一人で作り上げた、典型的なエレクトロ・ポップで、

いきなりヒットチャートの常連となりました。

ただこの人の場合はスタイルこそ典型的でしたが、音の作り方に関しては、

他のエレ・ポップ勢とは決定的に違うものがあったんです。

普通はシンセを使うと、ある種の無機質なクールさが前面に出てきて、

そこに近未来的なカッコよさが当時は感じられたのですが、

この人のシンセは人懐こい、ヒューマンな温かみが持ち味で、

これは当時としては、かなり衝撃的でした。

音に負けない楽曲の良さと、適切なアレンジ、

そしてセンスの良い、愛情を持った演奏があれば、

シンセでも充分に人間的な暖かさを表現することができるんですね。

はじめにエレクトロニクスありき、ではなく、おそらく10年早かったら

ピアノで弾き語るシンガー・ソングライターになっていたはずの人が、

たまたまシンセがあったから使った、というのが真相なのかもしれませんね。

9月6日(木)の名盤は

突然ですが「イギリスが生んだ三大ギタリスト」と言われたら、

皆さん3人の名前を挙げることができますか?

正解はエリック・クラプトン、そしてジェフ・ベック、最後にジミー・ペイジ。

今日は「ジェフ・ベック」を紹介しました。

実はこの3人とも、ヤードバーズというバンド出身で、

「三大ギタリスト」としてクラプトン、ベック、ペイジと順番が決まっているのは、

腕前の順ではなく、このヤードバーズのリード・ギタリストを務めた順番なのです。

このバンドを抜けた後、彼はジェフ・ベック・グループ、

そしてメンバーを全員チェンジした第2期ジェフ・ベック・グループ、

さらにロック史上最強のトリオと呼ばれたベック、ボガート&アピスと、

3つのバンドをすべてアルバム2枚だけ作っては解散させるほど、

気難しいというか頑固というか、天才肌の人と言えるのでしょう。

そして自分がバンドの一員には向いていないと自覚したのか、

ソロ活動に入ります。ここからが彼らしい頑固さですが、

歌を入れるのをやめてしまうんです。

“俺のギターに歌は要らない”とばかりにインスト路線に走ります。

クラプトンが今や味わい深いシンガーとして、

ペイジはツェッペリン時代から作曲&アレンジの名手として評価が上がり、

一言でギタリストと言えなくなった後も、

ベックだけはひたすら生涯一ギタリストである道を歩み続けています。

ジャズ/フュージョンぽいインストで、バックもその系統の一流ばかりの中、

それをブチ壊すベックのギターは圧倒的にロック。

他の二人に知名度と収入では圧倒的大差をつけられてしまっても、

ギター・キッズからは一番支持されているのではないでしょうか。

8月30日(木)の名盤は

「夏休み特別企画」!!

~「この曲はこの人のオリジナルと思われているけど、
本当はあの人の曲なんです」シリーズ~。<番外編!>

今日紹介したのは、

サイモン&ガーファンクルの大ヒットした「サウンド・オブ・サイレンス」。

この曲、正真正銘、彼らのオリジナルなのですが、

ヒットしたバージョンとは別に、実は原曲があるんです。

もともとこの曲は1964年発表のデビュー・アルバム「水曜の朝、午前3時」の

1曲として初めて世に出ました。

ここでは完全にアコースティック楽器のみのフォーク・スタイルでの演奏が

収録されています。ところがこのアルバムさっぱり売れず、

サイモンはイギリスへ渡り、ガーファンクルは大学へ戻りと

ほぼ解散状態になっていた時に、マジックが起きます。

1965年6月15日。この日、彼らのデビュー作のプロデューサー、

トム・ウィルソンは、ボブ・ディランの新曲を録音していました。

終了後、その場にいたディランのバンドに「もう1曲だけ付き合って欲しい」

と頼み、「サウンド・オブ・サイレンス」を聴かせて、

その場でエレキ・ギター、ベース、ドラムを上からかぶせてしまったんです。

そしてサイモンにもガーファンクルにも無断でシングル・カットされてしまった

ニュー・バージョンのこの曲が売れに売れ、翌年、1966年の1月、

ついに全米No.1となりました。

これが皆さんがよくご存知のバージョンという訳です。

イギリスでこの話を聞いたサイモンは烈火のごとく怒ったそうですが、

結果的に活動を再開、ポップス史上に輝く名グループ、

サイモン&ガーファンクルの快進撃が始まったのです。

そしてこの出来事は音楽史上最大の魔法として語り継がれています。

8月23日(木)の名盤は…

「夏休み特別企画」!!

~「この曲はこの人のオリジナルと思われているけど、
本当はあの人の曲なんです」シリーズ~。<最終回!>

今日は「愛のコリーダ」を紹介しました。

1981年、クインシー・ジョーンズのヒットで知られ、

今なおダンスクラシックとして人気の高いDJご用達のこの曲。

オリジナルはイギリスのパンク/ニューウェイブの雄、

イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズに在籍する白人マルチ・プレイヤー、

チャス・ジャンケルがソロとして、1980年にイギリスでヒットさせました。

作曲もチャス本人。

大島渚監督の例の映画に感動して、タイトルだけいただいたというこの曲、

クインシー版のヒット後、チャスのレコードもすぐに日本で発売されましたが、

まったく話題になりませんでした。クインシー版の圧勝でした…!

だけど、チャス本人にしてみれば、それはどうでもいいことなのかな?

ブロックヘッズというバンドはファンクやレゲエといった黒人音楽を、

白人ならではのぎこちなさで再構築するのではなく、

黒人と同じ土俵で競い合える唯一のイギリスバンドと評価されています。

「でも実際の黒人達は、俺らのことをどう思ってんのよ?」と思ったチャスは、

この曲をクインシーへ売り込みに行きます。

それが気に入られて、しかもチャスのアレンジをほぼそのままに、

黒人音楽界の頂点ともいえるクインシー・ジョーンズがカバーしたことで、

ある意味でチャスの勝ちだった。んでしょうか?

彼は、再びパンク/ニューウェイブの世界へ戻っていったのでした。 

8月16日(木)の名盤は…

「夏休み特別企画」!!

~「この曲はこの人のオリジナルと思われているけど、
本当はあの人の曲なんです」シリーズ~。

第2弾♪今週は「ベティ・デイヴィスの瞳」を紹介しました。

この曲は、1981年にキム・カーンズが歌って、5週連続、

そして1週陥落したものの、翌週からまた4週連続で全米1位のヒット、

その年の年間チャートで2位、そして80年代の10年間のチャートでも2位、

まさに1980年代を代表するウルトラ・メガ・ヒットを記録して、

今でもよくRADIOでON AIRされていますね!

このキム・カーンズの「ベティ・デイヴィスの瞳」が実はカバーなんです。

最初に歌ったのは、ジャッキー・デシャノンという人で、1975年のこと。

作曲したのもデシャノン。この事は当時のレコードにも書いてありましたが、

大きな話題にはなりませんでした。

普通、カバー曲が流行ると、原曲もラジオでかかったりするものですが、

全然ありませんでした。

なぜかというと、ジャッキー・デシャノンのこの曲が入ったアルバムは

ほとんど売れないまま、81年当時、すでに廃盤になっていたんです。

そして1995年に日本で世界初CD化されるまで「幻の名盤」として、

コレクターズ・アイテムとなっていて、世界中でもごくわずかなマニアしか

原曲を聴いたことがなかったからです。

彼女は60年代から多くのロックンロール、ポップスのヒットを作った

作曲家として、ポップスの歴史に残る偉人の一人です。

でもCD化されて初めてこの原曲に触れた方は、

キム・カーンズのバージョンとの違いに驚いたんじゃないでしょうか。

原曲の素晴らしさはもちろんですが、

これを聴いてよくあのアレンジが思い浮かんだものだと、

キム・カーンズ版のプロデューサーとアレンジャーの素晴らしさも伺えます。

8月9日(木)の名盤は…

「夏休み特別企画」!!

~「この曲はこの人のオリジナルと思われているけど、本当はあの人の曲なんです」シリーズ~。

1994年にマライア・キャリーが歌って、

全米3位のヒットとなった「ウィズアウト・ユー」。

さすがにこの曲、マライアがオリジナルと思っている方は少ないと思います。

CDの解説にも書いてありますし、当時、ラジオのDJも言っていました。

「1972年、ニルソンの全米No.1ヒットのカバー」である、と。

それは間違ってはいないんですが、実はニルソンもカバーなんです。

本当のオリジナルはイギリスのロック・バンド『バッドフィンガー』で、

1970年に発表したアルバム「ノー・ダイス」の中の1曲。

作曲したのもメンバーの2人、ピート・ハムと、トム・エヴァンス。

こちらはヒットするどころか、シングル・カットすらされていないので、

「ニルソンのNo.1ヒット」と言ったほうが説明しやすいのは分かりますが、

これは意地でも言っておきたいと思います。

バッドフィンガーというバンドは、ビートルズの弟分として、

アップル・レコードからデビュー。このため注目もされましたが、

逆に「小型ビートルズ」と言われ続ける不幸にも見舞われ、

さらにアップルのゴタゴタで、70年代後期から80年代を通して、

15年間ほど世界的に廃盤の憂き目にあい、

さらにマネージャーにだまされて、正当な報酬を手にすることができず、

絶望したメンバー2人、奇しくも「ウィズアウト・ユー」を作った

ピートとトムの2人が、相次いで自殺してしまうという

悲惨な末路をたどった不運のバンドです。

おそらくこの印税もまともに手にしていないでしょう…。

私達にできることは、正しい真実を心に刻んで、

末永くこの曲を愛することだけでしょうかね。

8月2日(木)の名盤は

今日は、1990年のナンバー、しかも初めてのHip Hopを紹介しました。

今日紹介したのは、陽気なパーティ・ラップを得意とする

「DJ.ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス」です。

このラッパーのフレッシュ・プリンスとは、

現在はハリウッドの大スターとなったウィル・スミス、その人です。

このグループは、政治性皆無で、ごく普通の若者の日常を

ダラダラとしゃべくることと、超有名な曲のおいしいフレーズをサンプリング、

いわゆる「大ネタ使い」と呼ばれる親しみやすいサウンドです。

中でも1991年の大ヒット曲「サマータイム」ですが、

これはクール&ザ・ギャングが1974年に発表した

ジャジーなインスト・ナンバー「サマー・マッドネス」をサンプリングというより、

そのままカラオケにして、若者なら男女を問わず誰でも考えるであろう、

夏休みの下心というか、ひと夏の経験への憧れと期待を綴った名曲です。

7月26日(木)の名盤は…

今日は「エイジア」を紹介しました。エイジアは、

元イエスのスティーヴ・ハウ、同じく元イエスのジェフリー・ダウンズ、

元キング・クリムゾンのジョーン・ウエットン、

元ELPのカール・パーマーという、70年代イギリスを代表する

プログレッシヴ・ロック界の猛者4人で結成された

80年代のスーパー・グループです。

このプログレッシヴ・ロック(略してプログレ)は、

クラシックやジャズなどの要素を取り入れた、非常に複雑な構成の

ドラマティックな大作主義のロックで、

これを80年代風に曲をコンパクトにまとめ、ドラマティックさはそのままに、

わかりやすくキャッチーなメロディで仕上げる、

というコンセプトで出発したのがエイジアでした。

その結果、70年代には考えられなかったシングル・ヒットを生み、

初めて世界的な一般大衆人気を獲得することとなったわけです。

中でも1982年のデビュー・シングル「ヒート・オブ・ザ・モーメント」は、

全米4位を記録する大ヒット・ナンバーです。

ちなみにこの曲の出だしとサビメロ、

バグルズの「ラジオ・スターの悲劇」という曲にそっくりなんです。

それもそのはず、この曲の作者、元イエスのジェフリー・ダウンズは、

その前はバグルズのメンバーで、

「ラジオスターの悲劇」の作者の一人でもあるのです。

この2つの曲、もちろん歌詞は全然違いますが、

構成的にはほぼ同じ曲と言い切ってもいいと思います。

同じ曲がアレンジを変えるだけで、まったく別物に仕上がってしまう。

ある意味、音楽のマジックと言えそうですね。

7月19日(木)の名盤は…

今日は爽やかな女性ボーカル「シーナ・イーストン」の

”9to5(モーニング・トレイン)を紹介しました。

最近では深夜のテレビショッピング番組の司会として、

目にする機会も多い彼女ですが、

彼女は1980年代に世界的にすごく人気の高かったシンガーです。

出身はイギリス。スコットランドはグラスゴー近郊で、

学生時代からバンド活動し、歌手を目指していたところ、

1979年、20歳の時にBBCEMIが企画したポップスターを目指す

新人歌手を追うドキュメンタリー番組のオーディションに合格。

シングル「モダン・ガール」で翌年80年にデビューしましたが、

まだ番組放送前だったため、全英56位にとどまりました。

2ndシングル「9to5」は番組放送に合わせてリリースされ、

あっという間に全英3位の大ヒットとなり、一躍トップ・スターになります。

日本やアメリカでは翌年の1981年に紹介され、最初から大ヒット。

アメリカではちょうど同じ頃ドリー・パートンの「9to5」という曲が

ヒットしていたので、9to5(モーニング・トレイン)」とタイトルを改め、

見事全米1位に輝いています。

短い髪に大きな瞳が印象的なルックスの良さももちろんですが、

確かな歌唱力と声の良さ、ポップスの伝統を感じさせる楽曲の良さで、

80年代を通して長く愛されたシンガーです。

7月12日(木)の名盤は…

今日は「アラン・パーソンズ・プロジェクト」を紹介しました。

ビートルズで有名なイギリスのアビー・ロード・スタジオで、エンジニアを務め、

そのビートルズのアルバム「アビー・ロード」や、

ピンク・フロイドの名作「狂気」などを手がけた職人、アラン・パーソンズと、

同じくアビー・ロード・スタジオで作曲家として働いていた

エリック・ウォルフソンの2人を中心に、1975年に結成されたのが、

このアラン・パーソンズ・プロジェクトです。

バンドとかグループではなく、この2人以外のメンバーは固定されておらず、

リード・シンガーさえも作品ごとにゲストを呼んで適材適所で対応する、

文字通りプロジェクト・ユニットで、初期の内はいかにもエンジニア出身らしく、

スタジオ技術を駆使しての凝った音作りで、

プログレッシヴ・ロック色の濃い、ドラマチックな大作主義だったのですが、

徐々にポップな傾向を強めて、80年代に入った頃からは、

シングルヒットも数多く生まれ、

いわゆる「ラジオ・フレンドリー」なサウンドへと変化しました。

今日紹介した「ドント・アンサー・ミー」は、1984年のヒット曲。

日本ではおそらく一番人気の高い曲ではないでしょうか?

ちょっとノスタルジックなオールディーズ調のメロディや、

フィル・スペクター風のサウンドの中にも、イギリスらしい湿り気や、

ヒネリの効いたポップ・センスが、日本人の心の琴線に触れることと、

ビデオ・クリップがよく出来ていたことが、人気の理由でしょうかね?

7月5日(木)の名盤は…

今週も雨にちなんだ名盤を紹介しました。

今年3月14日に、60才の若さで亡くなった鈴木ヒロミツさんが在籍していた、

モップスの「たどりついたらいつも雨ふり」。

モップス、当時テレビでは、GS、グループ・サウンズと紹介されていました。

それは間違ってはいないのですが…厳密に言うと、GS後期に登場して、

他のタイガース、スパイダーズといった面々が解散した後も生き残って、

70年代のロック・バンド゙へ橋渡しした、アイドルやブームとは距離を置いた、

日本初の本格的ロックバンドだったんです。

メンバーには後の日本ロックを裏から支えることになる

名アレンジャー、星勝がいたことも実力を裏付けています。

そして、鈴木ヒロミツのボーカルが素晴らしかったこと。

評論家の渋谷陽一氏や、ミュージシャンのサエキけんぞう氏などのように、

今なお「歴代最強のロック歌手は鈴木ヒロミツ」と断言する人も多いのです。

ユーミンがモップスの追っかけだったのは有名な話ですし、

この曲は吉田拓郎が提供した1972年のもので、

多くのアーティストから愛される存在でした。

6月28日(木)の名盤は…

ある世代には懐かしく、

またある世代には新鮮に響く名盤の数々を紹介する「名盤iNaDAY」。

”梅雨”、先週に引き続き雨にちなんだ名盤を紹介しました。

今日紹介したのは、ボブ・ディランの「雨の日の女」。

ボブ・ディランは今年でキャリア45年、

長きにわたって第一線で活躍しているアーティストですが、

「雨の日の女」は、彼の数多いヒット曲の中でも、

1966年に全米2位のヒットとなった代表作の一つです。

マーチ風のリズムは楽しげなものの、ほとんどメロディのない、

しゃべるような歌なのに、よく全米2位になったな、と感じてしまいます。

同時代のもう一人のアメリカの天才、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが、

この曲について「確かに詩的だが、音楽を破壊するものだ」と評しています。

逆に言うと、それぐらい革命的だったわけです。

そんな彼は今でも現役で活動を続け、

なんと、 去年リリースしたアルバム「モダン・タイムズ」は、全米No.1に輝いています!

6月21日(木)の名盤は…

ある世代には懐かしく、

またある世代には新鮮に響く名盤の数々を紹介する「名盤iNaDAY」。

”梅雨”ということで、今週から雨にちなんだ名盤を紹介していきます。

今日はザ・ドラマティックスの「イン・ザ・レイン」をピックアップ。

ザ・ドラマティックスは、

1960年代半ばにデトロイトで結成された黒人ボーカル・グループで、

その人気、実績、実力、すべてにおいて、

ソウル・ボーカル・グループの最高峰の一つとして、

多方面からリスペクトされています。

この「イン・ザ・レイン」は1972年に全米5位、

R&Bチャートでは4週連続1位を記録した、

彼ら最大のヒット曲で、これまでに数多くのアーティストからカバーされ、

90年代にはヒップホップのネタとして、たくさんサンプリングされています。

この曲、まずは雷と豪雨のSEから始まるのが当時かなり衝撃的でしたが、

それを割って入る、ハッキリ言ってエッチ~ぃギターとパーカッションのイントロだけで、

もう歌の世界へ引きずり込まれます。

そして歌。リード・シンガーの力量が素晴らしいのはもちろん、

途中まで「ソロ歌手だっけ?」というくらい、コーラスが出てきません。

中盤からボーカル・グループらしくなりますが、これ見よがしにハモったりせず、

必要最小限で絶妙に絡んできます。

さらに歌詞。「ひどいどしゃ降りだけど、僕は外に出て行きたい。

何故なら泣いてるのを君に見られたくないから。」 殆どこれの繰り返し。

にも関わらず、僕と君がどういう関係なのか、そして今どんな状態なのかが

痛いほど伝わってきます。

楽曲、アレンジ、歌唱、三位一体となった表現力見事ですね。

6月14日(木)の名盤は…

ある世代には懐かしく、

またある世代には新鮮に響く名盤の数々をご紹介する「名盤iNaDAY」。

今日はMR.BIGを取り上げました。

MR.BIGと言えば、1992年の全米No.1ヒット「To Be With You」で有名な、

90年代アメリカを代表するスーパー・バンド、ではなくて…

皆さんは、あのMR.BIGの前に同じ名前の別のバンドが、

ひっそりと存在していたことをご存知でしょうか?

1975年にデビューして、2枚のアルバムを残しただけでどこかへ…

そんなイギリスのMR.BIG

もっとも、デビューする時はそれなりに注目され、

ドラマチックな構成のハード・ロック・サウンドは、

クイーンの再来”などと呼ばれ、

実際にクイーンの前座を務めたこともあります。

ここ日本でも当時かなりレコード会社がプッシュしていたにも関わらず、

ほとんど売れなかった悲運のバンドと言えるかもしれません。

彼らは、クイーンに例えられたこと以外に、2つの大きな特徴がありました。

1つは、ツイン・ドラム編成、つまりドラマーが2人いたこと。

ツイン・ドラム自体はそれほど珍しくないのですが、

彼らの場合は4人しかいないのに、うち2人がドラム。

ギターの人が歌も兼ねて、ベースがいて、ドラムが2人。

もう1つは、中華風アレンジの曲があったこと。

実はアルバムに1曲だけ、そういう曲があっただけなんですが、

日本では「中華ロック」のレッテルを貼られ、

ラジオでもその曲ばかりかかっていたのです。

それですっかり“色モノ”扱いされてしまったのが、不運だったのでしょうが、

いろんな音楽のミクスチャーが浸透した今こそ、

30年前の無謀な試みが再評価されるかもしれません!!

6月7日(木)の名盤は…

今日は「ダイアー・ストレイツ」をピックアップしました。

1978年、ニュー・ウェイブ旋風吹き荒れるイギリスで、時代錯誤とも思える、

と言うよりもむしろ時代を超越したかのようなアメリカン・テイストの

渋いブルース・ルーツのロックンロール・サウンドでデビューして以来、

本国イギリスでは国民的人気バンドとなり、アメリカでも1985年、

スティングと共演した「マネー・フォー・ナッシング」で全米No.1となり、

グラミー賞獲得と、80年代を代表するロック・グループといえる彼ら。

彼らの代表曲と言えば、その「マネー・フォー・ナッシング」か、

「悲しきサルタン」というのが王道でしょうが、

実は本国イギリスで最もチャート的に上位を獲得したのは、これらではなく、

紹介しました「哀しみのダイアリー」という、1982年のナンバーなのです。

ちなみにアメリカや日本ではまったくヒットしていません。

おそらく世界数百カ国全てのナショナルチャートでトップ3に入った曲の中で、

歴史上最も地味な名盤ではないかと思うほど地味な曲です。。。

この曲を2位にさせるイギリス人ってすごいですね!?

5月31日(木)の名盤は

今日紹介したのは1980年代に数多くのヒット曲を放った女性グループ

「バングルス」

ロサンゼルスで結成された女性4人組のバンドで、

何度かバンド名を改名したり、

メンバー・チェンジして、1984年にメジャー・デビュー。

60年代のガールズ・グループは、職業作曲家の書いた曲を

プロの演奏家に合わせて歌うだけだったのに対し、

バングルスは自分達で曲を作り、楽器ももちろん自分達で演奏する、

”ロック・バンド”の形を取っていました。 

彼女達には、バンドでありながらも60年代の先輩達に通ずる楽曲の良さ、

ノスタルジー、そして存在のキュートさがあったからこそ、

ガールズ・グループの伝統をリスナーに思い出させたのでしょう。

彼女達の代表曲と言えば、全米1位の「エジプシャン」か、

同じく1位で結婚式の定番ソングともなっている名バラード

「胸いっぱいの愛」などもあります。

今日は1986年、彼女達の初ヒットとなった「マニック・マンデイ」をOA。

曲を書いたのは、なんとプリンス。しかもカバーではなく、

彼女達のファンだというプリンスが、

書き下ろしてプレゼントしたのだそうです♪

5月24日の名盤は

今日紹介したのはフライング・キッズの「幸せであるように」。

今年8月の「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」で何と9年ぶりに、

ほぼオリジナル・メンバーで再結成を果たすそうです!

彼らは平成元年に爆発的ブームとなったテレビ番組「いかすバンド天国」、

いわゆる「イカ天」で5週勝ち抜き、

初代グランド・イカ天キングとなってメジャーデビューしました。

もちろん実力派のフライングキッズ!

「イカ天が生んだ」とか「90年代の」とかではなく、

もう「23世紀まで歌い継ぎたい名曲」ではないでしょうか?

5月17日の名盤は

今日は「クロコダイル・ロック/エルトン・ジョン」をピックアップ。

ちょうど10年前、あのダイアナ妃追悼曲としてリリースされた

「キャンドル・イン・ザ・ウインド‘97」は全世界でなんと3,300万枚も売れ、

シングル売り上げではダントツの歴代1位の記録で、

これはもう二度と破れないとも言われています。

日本での彼のイメージは

「切々とバラードを歌い綴るピアノマン」という感じですが、

派手で激しいロック・ナンバーも、バラードとおなじくらい

イギリス、アメリカではたくさんヒットしているのです。

今日紹介した”クロコダイル・ロック”は、

1973年に全英5位、全米では1位の大ヒットとなったロックン・ロール・チューン。

バラード・シンガーとしてではない、

幅広い意味での世紀のエンターテイナーぶりがうかがえます。

5月10日(木)名盤 IN A DAY

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」

今日紹介したのは「キープ・オン・ラヴィン・ユー/REOスピードワゴン」。

1960年代の終わりに結成、1971年にレコード・デビュー。

年間300本近いライブを行い、

ライヴ・バンドとして一部の評価は得ていたものの、

初期のうちはごくローカルな人気にとどまっていました。

その間もメンバーはライブを地道に続け、

音楽への熱意を失うことなく、決してあきらめませんでした。

そして1980年末にリリースした曲が「キープ・オン・ラヴィング・ユー」。

ハード・ロックのダイナミズムを残しながらも、マイルドで

メランコリックな味わいのあるポップでドラマチックなバラードのこの曲は、

813月にはなんと全米No.1を獲得。

続くアルバムも1位となり、一躍スターダムへとのし上がったのでした。

デビューから10年。メンバーも皆30を過ぎての遅咲きのブレイク。

ちなみに中心メンバーの名前はケヴィン・クローニン。

まさしく「ロック界の苦労人」の諦めない心が生んだ名盤といえるでしょう。

売れないバンドを10年間見守り続けたレコード会社…。

23年ヒットがなければすぐリストラされる

今のシステムでは起こりえないサクセスストーリーですね。

5月3日(木)名盤 IN A DAY

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」

今日紹介したのは「 マイ・シャローナ   /  ザ・ナック 」。

この曲は、シンプルで親しみやすいリフにも関わらず、

究極まで研ぎ澄まされて、聴き手の腰をゆさぶってきますし、

ドラムから始まって、ベース、そしてギターが次々に絡んでくる

イントロが印象的です。

1979年に全米No.1となった彼らのデビュー曲ですが、

もしこれが1曲目ではなく、5枚目ぐらいに披露されていれば、

”一発屋”などと馬鹿にされることもたかったはずですし、

もっと長続きしていたかもしれませんね。

4月26日(木)名盤 IN A DAY

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」

今日紹介したのは「 クレイジー・フォー・ユー   /  マドンナ 」。

彼女は、1980年代前半から現在に至るまで、20年以上にわたって、

常に第一線で活躍する数少ないスーパースター。

「世界で一番のマドンナ・ファンはマドンナ本人」と言われるくらい、

ファン目線で自己演出する才能が天才的であることで、

ずっとトップであり続けられるのかもしれません。

1985年にリリースされた「クレイジー・フォー・ユー」は、

それまでセクシーでダンサブルなアイドル・ポップ路線ばかりだった彼女が

初めてシングルで勝負した本格バラード。

彼女が本物かもしれないと世間に思わせた名盤です。

4月19日 名盤 IN A DAY

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」

今日紹介したのは「 糸   /   中島みゆき」。

この曲は1992年にリリースされたアルバム「East Asia」のLastに

収録されていたもので、ファンの間では”隠れ名曲”として人気でした。

2004年にBank Bandがこの曲をカバーし、大ヒット。

”知る人ぞ知る名曲”が広く一般に知られる名曲となりました。

4月12日(水)の名盤は…

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く

名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」。

今日ご紹介したのは、キッスの「ラヴィン・ユー・ベイビー」です。

現在は、”可愛らしい子供たちが、顔に派手なメイクをしてバンド演奏する”

デジタルカメラのテレビCMでおなじみかと思います。

1979年に大ヒットしたこの曲。

それまで日常的にロックを聴くことのなかった多くの人にも受け入れられました。

でももしかしたら、

熱烈なキッスファンはこの曲を彼らの一番の代表曲とは

考えていないかもしれませんね…?

4月5日(木)の名盤は・・・・・

ある世代には懐かしく、またある世代には新鮮に響く名盤の数々をご紹介する「名盤 IN A DAY」。

今日ご紹介したのは、日本のお茶の間にソウル・ミュージックを定着させたザ・スタイリスティックスでした。

最近では、木村拓哉出演のCMにも使用されたりして、時代を越えて愛されているグループです。

1970年代に「愛がすべて」という名盤があったからこそ、ソウルもディスコも日本に定着したんですね。